第四十七話 壊れた心 - それでも守りたかったもの -
代官到着の知らせから半月ほど。
【ガーラン】に派遣していた冒険者から報告が入った。
「代官の名はユーリス・フロイト。ギルド総本部の副ギルド長だ」
バルドゥスの言葉に、
「――ユーリス・フロイト?」
名を反芻し、眉を顰めるクロード。
「なんだ、奴を知ってるのか?」
バルドゥスの問いに、内ポケットの仮面を少し見せ、
「ええ。“これ”のころに、王都で何度か顔を合わせました」
「ああ……なるほどな」
そのことを思い出したかのようにバルドゥスがつぶやくと、
クロードが言葉を続ける。
「正直、良い印象はありません。【悪】とは言いませんが、一言で言うなら【狂信者】といったイメージです」
「【狂信者】か……確かにしっくりくるな」
クロードの言葉に同意し、バルドゥスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「彼のように自分の考えを絶対と信じ、敵対心を隠そうともしない輩は厄介です」
「慎重に様子を見ましょう」
「そうだな。監視役にも注意するよう伝えておく」
すり合わせを終え、クロードはその場を後にした。
その日の夕方。
使いで武器屋を回っていたリーリスの帰路。
そこに――
「とろとろ歩いてるんじゃねえ!」
男の罵声が響いた。
(……また【ガーラン】からきた冒険者か……)
見慣れない冒険者に、リーリスが眉をひそめる。
政情不安で仕方なしに移動を決めたものが多いため、
苛立ちや不安の色を隠せないものが多い。
「ごめんなさい!」
怒声に怯え、五歳くらいの娘の手を引く妻の姿。
嫌悪感を持って見ていると、
「バチン!」
男の平手が妻の側頭部を叩く。
リーリスの我慢の一線を、明らかに超えた瞬間だった。
「おまえ、やりすぎだ!」
男を睨みつけ、妻と子供を庇うように立ちはだかる。
その様子に、周りの通行人がざわざわとし始めるが、男は気にする様子もない。
「やかましい!俺のものをどうしようが俺の勝手だろうが!」
男の言葉に、
「“もの”じゃない!家族だからって殴っていいわけないだろ!」
負けずとリーリスは言い返す。
「ああ!?言ってもわからないから”しつけ”をしてやってるんだ」
にやけた顔で言う男に、
「はっ!”しつけ”が必要なのはあんたの方じゃないのか?」
その言葉が、男の逆鱗に触れる。
「小娘が生意気な!」
大きく振りかぶった右腕で、リーリスの左頬を叩こうと腕を振りぬく。
「なっ!?」
それを沈んで交わすと、
「ぐっ……!」
右手の掌打で男の鳩尾を打つ。
上体が折れ下がった顎に、
「がっ……!」
下からさらに掌打を重ねる。
棒立ちになったところで、男の右ひざ裏に自分の足を差し込み、
上体を押し崩すように投げ倒す。
「ぐぁっ!」
背中と頭部を打ち付け、一瞬の悲鳴と共に動かなくなった。
そこに、聞き覚えのある声がかかる。
「――あんた、強いんだな……」
心から驚いた声をかけたのは、
【ブレイブラッシュ】のリーダーカイル。
リーリスが上位ランクの魔物討伐を諦めさせ、命を救った冒険者。
「声が聞こえたから来てみたけど、手助けはいらないみたいだな」
あの日の恩を返そうと駆け付けたが、目の当たりにしたのは、男が倒されるまでの一部始終。
「これでも、レオンと一緒に稽古させてもらってるからね」
カイルの言葉に答え、
「そうか!そりゃあ強いわけだ……」
納得し苦笑いを浮かべる。
「でも、目が覚めてまた暴れると面倒だから、協力してもらえるならありがたい」
リーリスの願いに、
「わかった。俺が残って、仲間に報告に行ってもらう」
「助かるよ」
男の剣を取り上げ後ろ手に縛ると、カイルは遅れてやってきた仲間に報告を依頼した。
「……大丈夫かい?」
ようやく安全な環境となり、男に殴られた女性に声をかけるリーリス。
「……はい……」
何かに怯えたように返事をし、視線を合わせない。
その様子に違和感を覚えながらも、しばらく待っていると、クロードとギルドの職員が三名やってきた。
「……怪我はありませんか?」
その第一声に、
「もちろん!」
元気に答えて見せる。
「そうですか、それは何よりです」
言って笑顔を見せる。
男はギルド職員に連行され、クロードは残された女性と子供に視線を移す。
「お話を伺いたいので、お二人も一緒に来ていただけますか?」
「……はい……」
やはり目を合わせずに答える女性に、リーリスとクロードの目が合った。
「……それでは行きましょう」
嫌な予感を抱きながら、クロードは促し歩きはじめる。
連行されてすぐ、バルドゥスが男を問い詰める。
「――これが俺の聞いた話だが、何か言い分はあるか?」
「俺のなにが問題だってんだ!馬鹿な女子供の”しつけ”をしようとしただけじゃねえか!」
反省の様子など微塵もなく吐き捨てる。
「そうか、”しつけ”か」
バルドゥスの言葉に、
「そうさ」
同意と捉え、にやけた笑顔を見せる。
「”しつけ”なら、殴っても構わないわけだな?」
「当然だ!」
勝ち誇るように言い放つ。
「……そうか」
その言葉が一段低くなっていることにも気づかずにいる男に、
――バチン!
バルドゥスの平手が飛んだ。
「痛てえじゃねえか!何しやがる!」
男の抗議に、
「“しつけ”だ。馬鹿な冒険者をしつけるのはギルド長の役目だからな」
にやついていた男の顔から、初めて笑みが消える。
「安心しろ。お前が家族にしてきたことを、これからゆっくり理解させてやる」
一歩さらに近づくと、
「ま、待て……!」
「待てだと?お前は待てと言われて、待ったことがあるのか?」
男の顔が青ざめた。
「勘弁してくれ!もう手は出さない!いや……もう別れる!」
その言葉にため息を付くバルドゥス。
「くそっ……連れ子のいる女なんかと一緒になるんじゃなかった……!」
改心の見込みのない男のつぶやきに、バルドゥスの中で何かが切れた。
「そうか……とりあえずしばらくは牢屋で頭を冷やすんだな」
そう言うと、男を牢屋へ入れるよう指示をした。
別れを望むかどうかは家族次第。
さすがに、独断でそれを決める気にはなれなかった。
その頃、女性と子供は、ギルド治療院でハーサムの診断を受けていた。
「――クロード」
診断を終えたハーサムがクロードを呼び、別室で結果を告げる。
「あの女性、名はナンシー。娘はメルと言うらしいが、ふたりとも、体のあちこちに痣がある」
ハーサムの言葉に、
「やはり、虐待を受けていましたか……」
懸念が当たり、苦い表情を見せる。
「――あの野郎!」
一緒に聞いていたリーリスが憤慨するが、ハーサムの一瞬の表情の変化にクロードが気づいた。
「……まさか……」
クロードのつぶやきに、
「……おそらく、そのまさかじゃ」
沈んだその声に、
「……なんだよ、まさかって」
ひとり理解できていないリーリスが声を上げる。
顔を見合わせるふたりに、一層の不安を掻き立てられ立ち尽くしていると、クロードが悲しそうな瞳で真実を告げる。
「おそらく、メルと言う娘を主に虐待しているのは、母親のナンシーの方です」
「母親!?」
信じられないと目で訴えるリーリスに、
「痣の大きさや深さが違いすぎる……おそらく、間違いないじゃろう」
ハーサムが目を伏せた。
「そんな……」
絶句するリーリスに、
「わたしはこれからナンシーと話をしてきます。あなたはここで待っていてください」
これからの話は、リーリスには残酷すぎる。
そう判断しクロードは告げるが、
「嫌だ!わたしも立ち会う!」
どうしても理由が知りたかった。
ふたたびクロードとハーサムが顔を見合わせるが、リーリスの意思の強さを知っているだけに、クロードが折れる。
「おそらく、残酷な現実しか待っていません……」
「――それでも、聞きますか……?」
返事はなかった。
それでも、リーリスは首を縦に振った。
「……そうですか」
一言。
「では、行きましょう……」
別室で休息をとるナンシーとメルの元へ向かうと、ちょうど食事を終えた後のようだった。
「少し、よろしいですか?」
「……はい……」
変わらず視線を合わせないナンシーに、
「率直に伺います。メルに“しつけ”をしたのはあなたですね?」
クロードの言葉に一瞬体を強張らせるも、“その言葉”に救いを求め、ナンシーが答えを返す。
「――そうです、“しつけ”です!」
そう言いながら、叱られた子供のように肩を震わせた。
「だって……言われたことができないから、仕方なかったんです!」
不自然な笑みを浮かべ答えるナンシーに、クロードの表情は陰りを増し、リーリスは激高した。
「“しつけ”ってなんだよ!こんな小さい子を殴っていいわけないだろ!」
いまにも殴り掛かりそうな勢いに、ナンシーが怯え、頭を抱える。
そして――
「――なっ……!」
リーリスの動きが止まった。
その前に、小さな身体が立ちはだかっていた。
メルだった。
虐待され、一番憎んでいてもいいはずの母親を守るように、
両手を広げ、リーリスを睨みつけている。
「……なんで……」
それ以上の言葉が出ず、リーリスは立ち尽くした。
その光景を見て、クロードはメルの前に片膝をつくと、笑顔で話しかける。
「大丈夫です。お母さんを叩いたりしませんよ。少しだけ、話をさせてください」
その言葉に手を下げるが、それでもメルは、母親の元から離れない。
その姿に憐れみを感じながらも、クロードは言葉を続ける。
「あなたが夫から虐待を受けていたことはわかりました。あなたを責めるつもりはありません」
その言葉に、わずかにナンシーの緊張が解ける。
「でも、あなたが夫に恐怖を感じていたように……いえ、それ以上の恐怖と孤独をメルが感じていることを、わかってあげてください」
それは、説得と言うよりも願いだった。
頷くナンシーに、
「必要ならば、あなたに仕事を斡旋することもできます。どうすればメルと幸せに暮らせるか、よく考えてみてください」
クロードはそれだけ言うと、リーリスを連れハーサムに後を託した。
【S.O.M.P.O. ジャン】控室に戻り、クロードとふたりになったリーリスは、
「……どうしてメルは、母親を庇うんだ……」
納得できず、その言葉を口にする。
「……優しかった頃の、母親の思い出があるからですよ」
クロードは答え、さらに続ける。
「もしもマールがあなたに暴力を振るったとして、あなたはマールを憎めますか?」
クロードのその言葉に、リーリスは目を吊り上げ、
「マールはそんなことはしない!」
大声で叫んだ。
「……そうですね。マールはそんなことはしません」
そんなリーリスに、クロードは優しい口調で答える。
「――けれど、人間は弱い生き物です。虐待を受ければ、ナンシーのように心を壊してしまうこともあります」
リーリスはその言葉を黙って聞いている。
「そして心の壊れたナンシーは、その捌け口をより弱い者に求めました」
一番近くにいて、
一番弱く、
そして誰も止めない。
その相手が、メルだった。
「じゃあメルは……どうすればいいんだ!」
リーリスのその叫びに、クロードは答えを持っていない。
「どうにもできません……だからメルは、いつか優しい母親に戻ってくれると信じることで、自分を保っているのだと思います」
それが、母親を庇うメルの姿の答え。
クロードはそう推測した。
「そんな……」
何もできないことに無力を感じ、リーリスが涙を流した。
「……わたしたちにできることは、そう多くありません。ですが……できることはやってみましょう」
立ち上がり、クロードは事情をマールに伝えるとリーリスを任せ、バルドゥスの元を訪れた。
「……来たか」
お互いにやりきれない思いを抱え、情報を交換する。
「……そうか……母親はもう壊れていたか……」
歴戦の強者がため息をついた。
力をつけても、権力を得ても、人の心はどうにもならない。
「状況を考えるに、男と別れ、自活の道を歩む他ないように思います」
クロードの言葉にバルドゥスは、それは規格外のこの男ですら同じなのだと、力なく同意した。
「――後は俺が対処する。ご苦労だったな……」
バルドゥスの言葉に一礼し、クロードは部屋を後にすると、その顛末をリーリスに伝えた。
「……そうか。あの男と別れてふたりで暮らすのか……」
その方が良いとリーリスも思った。
「ええ……おそらくそうなると思います」
一抹の不安はあるものの、現状他に解決策が見当たらなかった。
「仕事に就くまでの間は、職業あっせん施設の空き部屋をあてがうそうです。時々、一緒に様子を見に行きましょう」
精一杯の関わりに力ない笑顔を作ると、リーリスも小さく頷いた。
――その三日後。
事態は大きく急変する。
「クロード!」
血相を変えたバルドゥスの叫びに嫌な予感を覚え立ち上がると、
「――力を貸せ!」
一瞬視線をリーリスに向け、言葉を選んだバルドゥスに、
「わかりました!」
続いて駆け出した。
「一体何が……」
立ち上がってつぶやいたエリナの後ろを、
「リーリス!?」
勘の良いリーリスが走り抜けた。
クロードの背中を追うと、そこは治療院だった。
「来たか、クロード!」
ハーサムが最後の望みに声を上げた。
「症状は!?」
簡潔に問い、
「外傷はまったくないが、ろれつがだんだん回らなくなり、今はもう意識がない」
ハーサムも必要なことだけ告げた。
「わしは……頭の中を疑っておる」
ハーサムの予想に、
「……おそらく、脳内で出血を起こしています」
クロードが力なく同意した。
同時に、メルの近くに座り込むナンシーに確認をする。
「メルの頭を……壁か床に叩きつけましたか?」
静かに――
湧き出る怒りを可能な限り抑え、静かに問う。
「だって……仕方がないのよ……これは……“しつけ”なんだから!」
取り乱すナンシーを見て同意と捉え、クロードが確信する。
「間違いありませんね……このままだと、メルは助かりません」
そのつぶやきに、
「そんな――!?」
後方で聞いていたリーリスが叫んだ。
気づいてはいたが、リーリスを帰す余裕もない状況。
クロードは言葉を続ける。
「命を繋ぎとめることを考えるなら、最低でもミドルポーションが必要です」
その言葉に、ハーサムは首を横に振る。
「……それはできん。明らかに治療院の役割を超える」
治療院は無償での治療は行わない。
使うとしても、回収可能性のあるポーションまで。
それが、公平を保つための絶対原則。
「あの母親に払わせればいいじゃないか!」
リーリスの言葉に、
「彼女自身が“病人”です。支払える見込みのない者のために、治療院は動けません」
ハーサムに代わり、クロードが答えた。
「なら――あたしが払う!」
その決意に、クロードの心が揺れる。
「……もしそれで命を繋いだとしても……メルが幸せかどうかわかりませんよ」
むしろこのまま――
心から溢れそうなその次の言葉を、必死に飲み込む。
「それでも!」
一拍。
「あたしは……あの子を助けたい……」
涙を流しながらまっすぐに見るリーリスに、クロードの心が決まる。
「……わかりました」
一言。
ミドルポーションを取り出し、メルに飲ませる。
ゆっくりと、染み込ませるように、ゆっくりと……。
「助かる保証はありませんが、少なくとも脳内の傷は塞がると思います」
クロードの言葉に、
「傷が塞がっても助からない可能性があるのか?」
バルドゥスが疑問を口にする。
「はい」
小さく答え、続ける。
「脳は非常にやわらかく繊細です。あふれ出た血液が脳を圧迫して傷つけているならば、呼吸困難や記憶障害が出てもおかしくありません」
説明し、顔を伏せる。
「後は……ポーションの力を信じ、無事を祈るほかありません」
メルを見つめるクロードの顔が、無力を嘆く。
「そうか……いや、良くやってくれた」
クロードに言葉をかけ、同時にリーリスを見る。
「……メルが助かったなら、力になってやってくれ」
小さな肩に手を置き、バルドゥスは願いを込めた。
リーリスは頷き、時間の許す限りメルを見守った。
――さらに三日後。
メルが目覚めたとの知らせを受けて、クロードとリーリスが駆けつけた。
「メル!」
ベッドの上で上半身を起こしているメルを見て、
リーリスが涙を浮かべてメルを抱きしめた。
「……どうしたの?つよいおねえちゃん」
メルのつぶやきに、
「そう言えば名前を教えていなかったね。わたしはリーリスだよ」
リーリスが笑顔で名乗る。
「リーリス?……じゃあ“リーねえちゃん”だ!」
すると、メルが初めてリーリスに向けて笑顔を返した。
「“リーねえちゃん”か、いいな、それ!」
その笑顔が嬉しくて、リーリスが声を上げる。
すっかり安心したリーリスだが、
ハーサムが沈んだ表情を浮かべていることに、クロードが気づく。
「……何かありましたか?」
その問いに、ハーサムは直接答えず、別の話を切り出した。
「さっきまでバルドゥスが来ておってな。男の方は【オーダリー】を出ることになった」
そして続ける。
「母親の方は治療を続けながら仕事に就くことになるが、メルは孤児院に預けるそうじゃ」
その言葉を聞き、リーリスに安堵が浮かぶ。
その方がメルに危険が及ばない。
ただ、母親を慕うメルの気持ちだけが心配だった。
「大丈夫……治療が終わればきっと、お母さんとまた一緒にいられるようになるよ」
リーリスの言葉に、
「おかあさん?」
メルが不思議そうな顔をする。
「わたしにおかあさんなんていないよ?」
すました顔でリーリスに告げた。
「……えっ……」
メルの言葉の意味がわからず、リーリスが言葉を失う。
代わりに、クロードの表情が一段曇った。
「おかあさん、だよ……?」
何とか絞り出したリーリスの問いに、
「うん。おかあさんなんていないよ?だって、おとうさんといっしょにきたんだもん」
まっすぐな瞳で、抑揚もなく答える。
立ち尽くすリーリスに代わり、クロードがメルに声をかける。
「孤児院はおともだちがたくさんいる場所です。“リーねえちゃん”もいたところですよ」
「そうなんだ!たのしみ!」
無垢なその笑顔に内心を隠し、クロードは笑みを浮かべる。
そして立ち尽くすリーリスを連れ、【S.O.M.P.O. ジャン】控室へと戻る。
「……どういうことなんだ……?」
リーリスの疑問に、
「……考えられることは二つです」
クロードが推論を語る。
「脳内で出血した血液の影響で記憶を失ったか、メルが自分を守るために、記憶を無意識に改変したかです」
一拍置き。
「そしておそらく、答えは後者です。優しい母親に殺されかけたことを、メルの心が拒否し、最初からいなかったことにしたのでしょう」
「そんな……」
あまりの答えに、リーリスを支えていた何かが崩れ去る。
「……わたしがメルを助けたのは、余計なことだったのかな……」
虐待されてなお両手を広げ、母親を守ったメルの姿が忘れられない。
「いえ、そんなことはありませんよ」
落ち込むリーリスに、クロードが断言する。
「わたしも迷いましたが、いまはあなたが正しかったと確信しています」
その笑顔が、リーリスの崩れた何かを、少しずつ立て直していく。
「どうして?」
その答えを求め、クロードの顔を見上げる。
「あなたも見てきたはずです。あなたの仲間たちが起こす奇跡を」
そう言われ、レオンたちの顔を思い出す。
「あの少女が、メルが、母親のことを一生思い出さないと思いますか?」
その言葉に、リーリスは首を横に振る。
あれだけ母親を思っていたメルが、永遠に思い出さないとは思えない。いや、思いたくない。
「時間はかかるでしょう……数年……いえ、数十年かもしれません」
「それでもきっと、彼女はいつかあなたに感謝する日が来ます。必ず――」
その言葉に、
「――そうだね。うん、きっとそうだ……」
自分に言い聞かせ、リーリスは無理やり笑顔を作る。
「わたしたちにできることは、メルを見守り続けること。そして――」
一拍。
「これ以上、メルと同じ思いをする人間を少しでも減らすことです」
クロードの言葉に、
「……できるの?そんなこと……」
リーリスが答えを求める。
「はい」
簡潔に答え、続ける。
「元々の問題は、貧困が大きく影響します。今回もナンシーが生活に困り、あの男を頼ってしまったために起きたことが原因です」
「……そうか、もしメルの本当のお父さんが保険に入っていれば、お金に困らずに、落ち着いて仕事を探せたかもしれないんだ……」
リーリスの言葉に頷き続ける。
「わたしたちの仕事は、そうやって不幸を減らす仕事です。時間はかかりますが、必ず誰かを救えます」
保険の意味をあらためて感じ、リーリスの崩れた土台が完全に、いや、さらに補強されて大きくなった。
「――わたし、受付に行ってくる!」
「ええ、お願いします」
目に輝きの戻ったリーリスを送り、クロードはようやく本当の笑みを浮かべる。
そして願う。
ナンシーとメルの心が癒されることを。
――十年後のとある場所。
リーリスは食事処でメルを見かける。
小さなテーブルのその向かいには、ナンシーの姿。
「今日が約束の日なんだね」
隣のテーブルに座り声をかけると、嬉しそうにメルが「うん」と返事をし、
ナンシーが小さく頭を下げた。
「まだおかあさんが心配して一緒には暮らせないけど、月に一度、一緒にお食事する約束してるの!」
母親の記憶を取り戻して一年。メルとナンシーのささやかな幸せの時間。
「そうか!良かったな!」
とびきりの笑顔で答えると、リーリスは注文を告げる。
時々聞こえる幸せそうな会話に、リーリスが心の中でつぶやく。
(……ああ。あんたにも聞かせてやりたいよ、クロード……)
(……あんたの言ったとおりだった……)
(……メルを助けて、本当に良かった!……)
その日、リーリスは普段飲まない酒を飲んだ。
めったに飲まないその酒は、少し苦いのに、なぜか幸せな味がした。
帳面の裏表紙に刻まれた名が、苦い思いを打ち消した。
――S.O.M.P.O. ジャン
剣と魔法の世界に、無力を嘆く、力ある者たち。
人の心は容易く壊れる。
それでも人は、誰かの手と小さな支えによって、前を向いて歩いていく。
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※毎週水曜日21:00更新予定です。




