【ルシアン視点】壊れゆく身体と身勝手な恋
エマがルシアンのプロポーズを断った後のルシアン視点のお話です。
朝の気配がして瞼をこじ開けた。
いつもの天蓋。朝の清々しい陽光が部屋を明るく照らし、遠くで鳥が鳴いている。指先の滑らかなシーツの感触を確かめながら、硬い肺を空気で膨らまし、ゆっくり吐き出す。
――今日も生きていた。
天蓋の幕は暫く閉まったことがない。目が覚めて辺りが暗かったらどう思うかわからないから。
呼吸がしづらく、鉛のように重たい身体を緩慢に起こす。
「――っ」
腹部が鈍く痛み、奥歯を噛んだ。服をめくると、臍より左側に大きな赤黒い内出血がある。
ゴホッ
乾いた咳に口元を覆うと、掌に生温い感触。
無感動に手を見ると、どろりとした血がべっとりとついている。
――忌々しい。
その掌をぐっと握る。それは一瞬の後、無詠唱の洗浄魔法によって跡形もなく消えた。僕のこの状態はこの邸の誰にも気付かれていないが、それもいつまで続くことか。
魔力がとぐろを巻く。血管を内側から圧迫するのか、ぐつぐつと熱いような、身を切るほど冷たいような、よく分からない感覚がいつまでも終わらない。……苦しい。
目を閉じると、数日前、いつもなら明るくきらめく琥珀色の瞳を、不安定に揺らめかせた彼女の顔が浮かび上がった。
「はは」
――僕は本当に何をやっているのだか。
コンコン
ノックの音にいつもの僕を装う。鏡を見るまでもない。悩みといえば乳母が坊ちゃま呼びをやめてくれないことくらいかなと平気で言える、憂いのないルシアン・アルベール・アイゼン。
どうぞと返すと侍女のメリッサが入室してきた。
「おはようございます、坊ちゃま」
いつもの呼称に苦笑する。僕の乳母でもある彼女は、父の代からずっと仕えてくれていた。
僕が幼い頃、メリッサにもたくさんの負担を強いた筈だが、父が亡くなり、母も去ったこの邸で変わらず僕を坊ちゃまと呼ぶ。
僕が何をしてあげられたわけでもないのに、まるで家族の情のような彼女の献身をありがたく思う。老齢に差し掛かった彼女だが、僕がここを去るときのために、既に謝礼と良い仕事先を見繕っていた。
「おはよう。今日はもう出るよ」
宮廷魔術師のローブを纏う。王太子殿下からの呼び出しだ。
廊下を玄関へ向かう。僕の靴音がカツンカツンと大きく響く邸は、公爵邸とは思えないほど静かだ。
最小限の使用人。このタウンハウスよりも、領地の邸ほうがよっぽと賑やかだろう。
見栄を張るつもりはないし、僕しかいないのだから不便はない。
◆◆◆
「来たな、色男」
「……どうされましたか、殿下」
殿下の執務室を訪れると、不名誉な呼ばれ方をした。この人がこんな調子の場合、僕にとって都合のよいことはほとんどない。
つい訝しげに眉を寄せてしまった。
「ついにオフィーリアとの結婚も秒読みらしいじゃないか」
「知っていてそのようなことを仰らないでください」
やはりろくなことではない。
これまでなんとか騙し騙しやってきたが、ついに先日衆人環視のさなか、身体中を強烈な痛みに襲われた。
立っていられないなんて、ついにここまで来たかと、手放しそうになる意識で思ったものだ。
結局、オフィーリアに助けられてしまったが、彼女がいなければあのままどうなっていたことか。
常に共に行動できるようにと殿下が護衛騎士に任命した当初は、そんな特別な対応はいらないと抗議した。
しかし今になって、これも殿下の慧眼かと思うばかりだ。身体が緩やかに壊れていく。自分が思っていたよりも、着実に。
「まあなあ。でもまだ侯爵は諦めていないんだろう?」
「そうですね……。だとしても私が公爵である以上は、オフィーリアの望まない結婚はしませんよ」
そもそも僕とオフィーリアが幼馴染なのは、彼女の父である侯爵が、娘を公爵家に嫁がせたかったのが理由だ。
ところが、当のオフィーリアは僕を真面目でつまらないと評した。父同士が友人でよく公爵家を訪れていた気さくなテオドールを彼女が好きになったのは、侯爵にとって計算外のことだっただろう。
彼女はとても見る目がある。
「――お前もだろう」
「………………」
あの日、長いまつ毛に覆われた大きな琥珀色の瞳が、朝の清らかな陽光もラクリマ湖の揺らめく輝きも全て受け止めて、この世の何よりも美しかった。
その瞳が、魔石を見たときのようにきらりと情熱的に、或いはとろりと甘やかに僕を見つめる。
見る目がないと一蹴すべきなのに、その瞳で見つめられると、自分がなんらかの価値のあるものに思えるのはどうしてだろう。
「何のことでしょう」
「これ見よがしに青い石を見せびらかしたそうじゃないか。フォード子爵令嬢だったか」
相変わらず耳が早いことだ。
「……自己満足ですよ」
あの時、自分は一体何を思っただろうか。
『汚い手で触れるな。彼女は僕の……』
僕のなんだというのか。
僕こそ、彼女に触れていいはずもない。
これは傷つけることしかできない手だ。
「ルシアン、お前はいつまで罪悪感で生きていくつもりだ?」
「そんなつもりは微塵もありませんが」
殿下は少しの間目を瞑ると、真剣に語りかけた。
「お前の父上は、お前が殺したんじゃないだろう。病死だったと宮廷医師も診断している」
「……そうですね」
そう、なのだろうか。
僕は相当な難産だったと聞いている。
身体に収めきれない膨大な魔力のせいで、僕が笑えば部屋中のものが浮き、泣けば辺りに氷の刃が飛び散る。 だから生まれてまもなく、物が壊れないように強力な魔法が掛けられた部屋に隔離されて育った。
母が絞った乳を、僕が落ち着いている時を見計らって誰かが与える。そうして生き永らえた。
当時、優れた氷魔法の使い手である父が、魔物討伐のために長く家を空けていたことも母への負担だっただろう。
既にメンフィス侯爵だった叔父が、僕の世話を請け負ったとも聞いている。
戻ってきた父は、余命幾ばくかの病気に侵されていた。
遅くにできた子をとても可愛く思っていてくれていたらしいが、実際に会ったのは、五つのとき。
むやみに魔力を暴発させず、ものを壊さなくなってきたと叔父が判断し、面会が整えられた。
そのときのことを昨日のことのように鮮明に覚えている。
ベッドに身体を起こして座った父は、穏やかに柔らかく笑った。
『ルーク』
優しく紡がれた言葉は、その時はよくわからなかったけれど、あとで僕の愛称だと知った。
そして父は僕へ腕を伸ばした。
感情を押し込めるように訓練されたはずの心が、大きく震えた。
胸に温かいものが満ち、頬が上気する。
その腕へ飛び込んだ。これが人のぬくもり。これが、父。これが、僕の。
『父上っ!』
喜びのまま顔を上げると、先程まで笑んでいた顔は厳しく歪んでいた。
『ルシアン、魔法を制御しなさい』
『え?』
制御できていない感覚はまるでなかったのに、父の身体に氷が張っていた。
焦れば焦るほど、氷があふれてくる。
『父上、どうしよう、父上』
パニックになった僕は詳細に覚えていないが、父が何とかその場を収めてくれなければ、一体どうなっていたことか。
隔離部屋に戻った僕は、いつものように鞭でもでてくるかと思ったが、叔父は笑って『落ち着いてよく休みなさい』と言っただけだった。
父は、その三日後、静かに息を引き取った。
(誰が何と言おうと、僕は敬愛する父に、病に苦しむ父に魔力をぶつけた)
僕の顔を見て殿下は肩をすくめた。
「もう少し貪欲にしたらどうだ? ほら、この俺のように。お前が子供の頃から見ているんだ、こんなにいい手本もないだろう?」
父が剣の師匠だったという十離れた殿下は、父が亡くなってからよく面倒を見てくれた。
「好きに生きてますよ」
「はあ、どうだか。この頑固者が。仕事ばかりで自分のことは後回しじゃないか」
「……それは仕事を寄越す、殿下のせいですよね?」
「いやー、お前がなんでもできるものでな。一番使いやすいんだ」
「それは光栄ですね」
あけすけな態度は昔から変わらない。
大恩あるこの人に何か返せるなら一番だ。
「この国一番の魔法使いとはお前のことだな」
「それは過分なお言葉ですよ」
そんなはずもない。現に今でも身の内を暴れ狂う魔力に翻弄されている。
魔法だって、必要があったから磨いただけだ。父以上の使い手にならなければいけなかった。誰かを傷つけるのではなく守れるようにならなければいけなかった。
ただ義務感がそう自分を絶えず急かしてくるだけ。……あの時まではそうだった。
「はあ、お前に何を失っても得たい女性でもできたと思ったのに、期待外れだったな」
「………………」
そんな女性、いるに決まっている。
「彼女がお前の『図書室の秘密の恋人』なんじゃないのか?」
「……また学生時代の古い噂をよくご存知ですね」
学校の図書室、一番奥の窓際の席。
魔導書を一ページ、一ページ、じっくりと読む真剣なまなざしが思い起こされる。
彼女の言葉だけは、いつもするりと心に染み入ってくるのはなぜだろう。
彼女は自分を無能で捻くれているといつだったか評していたが、とんでもない。
この魔力至上主義の国で確かに辛いことは多かっただろうに、その瞳は真っ直ぐ前を向き、素直で優しい心根は言動に表れていた。
その知識は舌を巻くほどで、媚のない明瞭な話し方は気持ちが良かった。
彼女の瞳を見ているのが、好きだった。
午後の高い日差しを反射して一層輝くのを見ると、心が前向きになった。茜さす琥珀色の瞳はとろりと甘やかに心を慰め、夜の瞳は理知に富み月光のように穏やかに包み込む。
その瞳を近くで見たくて、あわよくば映りたくて、ふらふらと彼女の前の席に座っていた。
――それすらも建前だ。
だって、話ができればもっと満足だった。
学友と話すだけ、そんな言い訳が効く間だけの甘えだったはずだった。
強烈な憧れのような彼女に、僕なんかが触れていいわけがない。僕の綺麗なだけではない欲をぶつけてはいけない。
――わかっていたのに。
「まあ、この身体では結婚相手に失礼でしょう」
彼女が、自由に真っ直ぐ夢を叶える姿を遠くから見ているだけでよかった。
いつか彼女が、決して僕ではない誰かの手を握って幸せそうに微笑む姿を見るだけでよかった。そうしてやっと、この恋と呼ぶには重苦しい想いから解放されると夢想した。
そのはずだった。
「俺は『何を失っても』と言ったんだ。
――その身がなくなっても得たくはないのか」
「……巫山戯ないでください」
僕の身体のことをよく知っているくせにこの言い様は、この人でも許されない。
押し込めたはずの想いが溢れたのは間違いなく彼女のせいだ。けれど、彼女の思いがけない奇跡のような想いを受け取って、少しだけと浮かれた自分は本当に浅ましい。
彼女の白く華奢な腕を無遠慮に掴んだ男に、僕は激しい苛立ちを覚えた。あれは身勝手で、身の程知らずでしかない嫉妬だった。
そのあと自分が彼女につらつらと話し連ねたことは、彼女にとってのメリットのつもりだった。
さぞ彼女の尊厳を傷つけたことだろう。
彼女が『あなたのメリットは?』と、頼りない声で尋ねるまで傷つけたことに気づかなかったなんて、僕はどんなつもりだったのか。
既に零れ落ちた言葉は無に返らず、全てを打ち明ける覚悟もない。不信感を募らせる彼女を安心させることもできず、ただ自分が作り出した悲惨な状況に失望するなんてお門違いだ。ただ一つ言い訳が許されるなら、彼女を傷つける意図なんて一切なかった。
『あなたの自己犠牲に成り立つ結婚はしません』
身体の底から冷えていくような絶望感に、僕が苛まれるなんて間違っている。
だって、冷静になって思う。
あれは本当に純粋に彼女を想っての言葉だっただろうか。
僕がいなくなったあとも、彼女があの空っぽな公爵邸で笑っている。僕の整えた研究室で、彼女が愛してやまない魔石の研究をする。僕の姓を名乗り、それが彼女の盾になる。
そんなものを、これ以上ないほど甘やかに感じるなんて、本当に巫山戯ている。
明日は本編後の幸せな二人のお話を投稿します!ルシアン視点です。




