29. 気づけば私から逆プロポーズしていました!?
「う、うまくいきましたね……っ!」
心臓が激しく鼓動している。
声が上擦っているのには構わず、ルシアン様を頭の天辺から足の先まで、それはそれは舐めるように観察した。見る限り、五体満足だし、出血もなさそうだ。
(よかった……! 本当に、よかった……)
ガチガチに固まっていた身体から、がくりと力が抜けた。ついでに腰も抜けた。悔しいことに当分は動けそうにない。まだルシアン様の魔力が空気を冷やす中で、額には汗が滲んでいた。
ルシアン様は柳眉を吊り上げて、キッと厳しい目をした。
「馬鹿っ! なんて無茶を!」
こんなふうに怒鳴るところを初めてみた。
千歩譲っても褒められたいなんて思ってなかったけれど、でも愚かなことに一緒に笑い合えると髪の毛一本分でも思っていたらしい。
心臓が冷たい手で握られたようだ。
いや、でも、違う。今彼の怒りをぶつけられて、私は彼よりもっと怒っていたことを思い出した。
「なんですって!? 馬鹿も無茶もこちらの台詞よ! 私には勝算がありました。ルシアン様は? 一人で耐えれば何とかなるなんて幻想だわ!」
何年、この術式を磨いてきたと思っている。
何度、検証したと思っている。
何度失敗して、その度、どれだけの時間を費やしたと?
私の行動は、決して、無謀ではなかった。他でもない私が、断言できる。
でもルシアン様は?
誰に助けを求めるでもなく、フラフラと一人でテラスなんかに蹲って。
月の光でも分かるほど酷い顔色で、額に脂汗をかいて、唇を噛み締めて。きつく握りしめた掌は血が滲むほどで、目を固く瞑った姿は、殻に閉じこもるように何者も拒絶していた。
その姿を見て悔しくて悔しくて堪らなかった。
「……っ!!」
その白皙が痛みを耐えるように歪む。
直後、荒立った声が静寂を切り裂いた。
「――そうだ、幻想だ! だから僕はこの魔力で父を殺した! 君を傷つけ、いずれ己をも殺すだろう」
彼は、自嘲気味に口角を吊り上げた。その頬は色をなくして細かく震え、いつもは澄んでいる青い目は暗く濁り果てている。
美しい満月の下、見慣れた類まれな美貌が、まったくの別人に見えた。
彼が長い間、一人で身の内に抱え、煮詰めてきた絶望そのものが顔を出しているみたいだ。
「――――――――え……?」
無様なことに情けない声が出た。周囲の音が遠のき、心臓の音だけが鼓膜を震わせる。あまりのことに思考回路が機能せず、無意味な疑問符だけを並べ立てていた。
今、彼は、なんて言ったの?
父を……?
自分を……?
冗談だとしたら、笑えないどころか趣味が悪すぎる。今後の付き合いを考えるレベルだ。だけど、そもそも彼はこんなことを冗談で言える人なんかじゃない。
じゃあ、これは、彼がその穏やかな顔に隠してきた「真実」なのか。こんなの、あまりにも……。
私を置き去りにして、こんな状況になってやっと堰を切った告白は止まらない。
「これまで僕なりに自分を律し、魔法を磨いて、必死にやってきた」
絞り出したような掠れた声は、精一杯自分を繋ぎ止めようとしているみたいに切実だ。
その努力一端を大して親しくもない私なんかでも知っている。
彼は出会った時から、苦労なんて何もないかのように優雅に、なんでもできた。
けれどよく図書室にいたし、読書量は敵わない。彼の掌や指には一朝一夕ではできない硬い豆があるし、魔法の演習場にもよく籠もっていた。
なにより、彼はいつも人に囲まれていた。親愛と尊敬を込めてその名を呼ばれているのをずっとずっと聞いてきた。
それは彼が誰にでも心を砕き、尊重して接していたからだ。その能力を他人のために使ってきたからだ。
反骨精神で意地汚くやってきた私には、到底できない清廉なやり方だった。よくやるものだと呆れる反面、眩しくて堪らなかった。
「でも結局はこうだ。僕は、傷つけることしかできない。
――君に僕は相応しくない」
彼は握りしめた拳を額に押し当てて項垂れた。その声は、風吹いたら消えてしまいそうなほど心許ない。
これは一体誰だろう。
こんな自虐的な彼の告白は止めてやらなければいけないと、妙な焦燥感に駆られる。
そのせいで何とか絞り出した声はみっともなくもつれた。
「ま、まって」
「こんな力なければよかっ……」
「待って!! それは言わないで!!」
思っていたよりも大きな声が、室内の喧騒から切り離された静かなテラスに響く。
その言葉は絶対に言わせてはいけない。
だって、それは彼の今までの努力を否定することだ。
どんなにつらい過去があったとしても、たとえこれが私のエゴで、彼にとって余計なお世話だったとしても、知ったことか。私は、彼に憧れた私のために、絶対に言わせてやらないのだ。
「……ごめん。僕は君を前になんてことを」
ルシアン様は何かに気づいたように、はっと言葉を止めた。「何か」というか、私のこのなけなしの魔力のことだけど。
「それはまったく些末なことです!」
こんな重苦しい告白の最中でも、私に気を遣うなんて、やっぱりルシアン様は馬鹿でしかない。
だけどお生憎様。私はもう自分の魔力のことは、とっくに受け入れているのだ。私にできることで精一杯やるともうずっと前に決めている。だから、今さら同情も謝罪もいらない。
「……っ」
彼はひく、と喉を引きつらせた。ひとまず言葉を飲んでくれたので、やっと目論見通りだ。
まあ、依然として脳はぐるぐると混乱していて、論理的であるべきの研究者としてはなんとも情けない有様だけれど。
「えっと、待って、待ってください。混乱して……。一つずつお願いします。
――まず、自分を殺すとはどういう事ですか?」
ルシアン様は、一度目をきつく瞑って、息を深く吐いた。意図的に平静な自分を取り戻そうとしているのかもしれないし、胸に重たい諦観をただ吐き出したようにも見えた。
開いた瞳は、ぽっかりとした空洞みたいで、キリキリと胸が痛む。
「……身体機能のピークに向けてここのところまた魔力が増えていて、身の内を傷つけるんだ。定期的にオフィーリアに治癒してもらわないとすでに生きていられない。
――血に宿る魔力はいずれ心臓を壊すだろう」
「……そう、なのですか」
残酷な事実を述べるその真っ平らな口調の裏で、何を考えているのだろう。
ただ、もし彼がみっともなく泣き喚いてみせたら、私もきっと酷く取り乱したのだと思う。
今辛うじて会話を続けられているのは、彼が酷く冷たい現実を前にしても、しゃんと立っているからだ。
――悔しい。悔しい。私はまた、庇われている。
まったく侮られている。
私は守られるだけでいたくないのに、ちっともわかっていない。
同時に、彼の行動が私の中で点を結び始めた。
オフィーリア様と頻繁に会っていたのは彼女とこの秘密を共有していたから。護衛騎士の任命もこの件が絡んでいるのかもしれない。
求婚をしたのは私を守るためで、煮え切らなかったのは命の期限を見据えていたから。
今となって、不自然なほど真っ白な顔色をしていたり、ゾッとするほど冷たかった掌を思い出した。
(すでに生きていられないって言った……)
その事実を知っただけで、恐怖が迫り上がる。
私でさえこうなのに、この人は穏やかな笑み一つで隠していたんだ。
正気の沙汰とは思えないほど化け物じみた精神力だ。
(――それってつまり、もう正常ではないのだろう。この平坦な態度は、ルシアン様の精一杯の悲鳴なのかもしれない)
……この人はたった一人でどこまでも抱え続けるのだろう。
だとしたら笑ってしまうほど、内罰的で臆病だ。
私はせめてこの臆病者の被害妄想を正さねばならない。
もちろん私の過去の過ちもだ。
「あの、誤解してほしくないのですが、私はあなたに傷つけられていません。私の術式が十分でなかっただけです」
「……どうして君は、そんなにも……」
ルシアン様の喉が引きつったように微かに鳴った。感情を抑え続けてきた瞳が行き場を失ったかのように泳ぎ、私の手を見た。
じっくりと確認するといい。
氷が引っかかって出来たきり傷の血は止まり、冷えて赤くなっていた皮膚はほとんど元通りで、感覚もある。
何の問題もない。研究中のほうがよほどひどい怪我をする。
「それに私、昔あなたに『楽しくないの?』だなんて、とても酷いことを言いました。……ごめんなさい」
私は本当に繊細な配慮もできない人でなしだ。彼が何かを抱えていそうに思っていたはずなのに、あんな不躾をかますなんてほとほと呆れ果てる。
なのにどうしたことか、彼は一つゆっくりと瞬きをすると表情一変させた。
なんだろう。どこか遠くの記憶を慈しむような、手の届かない光を追うような。
「違うよ。確かに苦しかったけれど、視界が拓けるようだった。君だっだからそう思えたんだよ。あの日僕は君に確かに救われた」
青い瞳が真摯な色を隠さず、真っ直ぐ見つめてくる。
瞬きなんてできない。一瞬たりとも目が離せない。
「――あの時から僕には、君だけだ」
……ここまできて、漸く彼の本当を受け取ったと思った。
床に折った膝に力なく握られた彼の右手が柄にもなく震えている。
正真正銘の臆病者だ。私はあなたを傷つけたりはしないのに。
「だからこそ君とはいられない。わかってくれるね?」
幼子に言い聞かせるような酷く柔らかな声音だったけど、私には全部を諦めているように聞こえた。
そんなの全くお話にならない。勝手に自己完結して、勝手に何処かに行こうだなんて、絶対に許さない。
「いいえ」
「え……?」
「いいえ。私はあなたと一緒にいたいです」
だめだな、損得なんてあったもんじゃない。
彼の丸ごと全部、私がもらいたいなんて、恋愛小説じゃあるまいし。
悔しいので目頭に力を入れて、立てた膝に引っかかっていた大きな左手を両手でそっと握る。彼の実は臆病な青い瞳が、吸い寄せられるように私を見ていた。
「自分のことを大切にしない自己犠牲が得意なあなたを、私が一番に大切にしたいです。……私、根性だけはあるんです。あなたが何もかも一人で抱え込まなくていいように努力したい。魔力のことは私がきっと何とかしてみせます。あなたが不安なとき私が傍にいますから」
支離滅裂もいいところだ。こんなときなのになぜか、ふっと笑えた。
彼の左手がずしりと重い。
さっきまで人の体温ではなかったそれが、温かくて嬉しい。
私を力強く助け出し、努力し、本を丁寧になぞる、彼の一等好きなところ。
私の決意はどうやったら伝えられるのだろうか。彼の薬指の付け根をすり、となぞった。
顔を上げて、青い瞳とひたと目を合わせる。
コクリとつばを飲んで、一音一音丁寧に紡いだ。
「私と結婚してください」
大きく開いた切れ長の瞳に、ふわりと涙の膜が張った。
そしてそれはゆっくりとした瞬きとともにぽろりぽろりと一筋ずつ涙になった。青い瞳が、あのラクリマ湖のようにきらきら光って見つめてくる。
舐めたら甘いんじゃないかななんて馬鹿げた思考で、たまらずその真珠のような涙を指先で拭った。
「……僕はもう、君を手放せない。それでもいいんだね?」
ルシアン様はやっぱり臆病者だ。
そんなに再三確認してくれなくたって私の答えは決まっている。
お飾りの妻なんてお断りだ。
私があなたを生涯愛すから、できればあなたも、ただそうしてくれればいい。
私の気持ちを誤解されたら堪らないので、青い瞳をじっと睨めつけた。
「はい。望むところです。ルシアン様こそ、手放されない覚悟をしてくださいね」
ルシアン様の尖った喉仏が上下した。彼は涙の跡を払い、唇を一度引き結んで、居住まいを正した。
さっきまでの普通じゃない頼りなかった様子が嘘のように、凛々しい姿だ。これに見惚れない人は芸術を愛でる心がないに違いない。
「エマ」
彼の甘やかな低い声が私の名を呼び捨てるのを聞いて、心臓がとくんと跳ねる。自分の名前が、彼に呼ばれるだけでこんなに特別に響くなんて聞いてない。
見つめ合ったまなざしは、熱を帯びてゆるゆると蕩けていき、薄い唇は優しく弧を描いた。
今それはずるいんじゃないだろうか。彼はいつも余裕の微笑で悠然と立っているのに、そんな我慢できなかったみたいに表情を崩すなんて。
「愛しているよ」
世界から音が消えた。余計なことを考えていた思考もぴたりと静止したように、真っ白だ。
ドクドクと脈打つ鼓動しか聞こえない。
なんだ、これは。
全身を熱い血流が巡り、心拍数は明らかに異常だ。……不謹慎でしかないが、魔力がなくてよかった。こんな状態で制御できるはずもない。
彼は本当に凄い。
人間は感情で動く生き物なのに、それを厳しく律して、誰も傷つけまいと強くあろうとする。
ルシアン様が、魔力を気にせず、思いっきり笑える日が来るといい。私が、絶対にそうしてみせる。
――そしてできれば、その顔を私に見せてくれるといいな。
決意を新たにしてみたが、表情を制御できないときはできないみたい。
冷静になれと叱咤するも、悔しいことに頬が緩むのをどうにもできなかった。
これが、想いが通じるということなのだろうか。だとしたら、世の中の恋愛をしている人たちはよほど強靭な心臓も持っているに違いない。
心臓に負担がかかってしょうがない。まったくなんて非効率なんだ。
彼は、私の左手を柔らかく掬い取ると、薬指に口づけた。その柔らかな感触に、心が甘く締め付けられる。
彼は私を傷つけたくないなんて言ったけど、私は今日彼に息の根を止められるんじゃないだろうか。
「君に永遠の愛を」
――もう、限界だ。
彼の顔をよく見ていたいのに視界が滲む。
(――私も。私も、そう、誓ったのよ)




