25. 公爵様、結婚にあなたの自己犠牲は要りません
バタン。
彼にしては乱暴な音を立てて扉を閉めた。
書類が整理して置かれる大きな机には、木彫りの人形。ここはきっとルシアン様の執務室だ。
「座って」
「…………」
(こ、怖い)
おずおずと執務机の前にある、応接用のソファに腰掛ける。
(……。いや、やっぱりおかしくない? 私が怒るならまだしも)
ルシアン様は、前のソファにドカリと座り、背もたれに背を預けて長い脚を組んだ。
勝手にビクつく肩が憎らしい。
「こういうことは、よくあるの?」
彼はふー、と長く息を吐き出して、こちらを見た。
なんだか威圧的なんですけど?
何がそんなに気に食わないのかわからないし、そういう態度をされるとつい反発心が芽生えてしまう。
「……そうですね。褒章をいただくことになってからは特に」
「そう」
……そのひと言にどんな意味があるんでしょうね?
うん、やっぱりムカムカしてきたぞ。
怒られる意味はわからないし、私は好きって言われたはずなのに、この人が別の女性を抱きしめるのを見た直後なのである。
私が下手に出る必要って一切ない。
うん。絶対ない。
「今日は助けてくださってありがとうございました。ですが、人を呼ぶなりして対処できました。今後、このようなことでお手を煩わせることはありません」
「……怒らないで。どうしたの?」
この人は自分が不機嫌な自覚がないのだろうか。
……確かに、いつでも穏やかな完璧公爵様。怒りの感情に疎いのかもしれない。
だけど、その態度はないんじゃないですか?
「どうもこうもありません。そもそも、あんな相手にやりすぎです。わざわざペンダントを見せびらかさなくったって、あなたなら追い払えたはず。今後、変な噂を立てられたらどうするおつもりです?」
「噂? 立てばいい。君の盾になるだろうし、僕は気にしない」
「そんなはずありません! あなたはアイゼン公爵閣下。アンセリアの三大公爵家、そのご当主なのですよ」
「うん。だから、どうとでもなるよ」
何だろう。言葉がうわ滑っていくような感覚。……ちゃんと伝わっている?
ルシアン様と目が合わない。それで、そう言えば彼を見るたびいつも、その青い瞳が穏やかな光を湛えて迎えてくれていたことに気づいた。
「――っ! だからって! あなたの名声を傷つけるような行為はおやめください!」
「こんなことで傷つく名声なんて持っていない」
こちとら必死なのに、淡々と返される。
きちんと考えているの? 私はあなたのためを思って言っているのに。
自分はどうでもいいみたいな言い草がほんっとうに気に入らない。
ふつふつと不信感が湧き上がってくる。
「本当にわかっていますか? あなたに泥を塗って助けてもらったからって、私が喜ぶと思われるのですか!? この髪を見てから言ってください!」
胸に垂れる髪をぐしゃりと握り潰す。
私はこの髪で何を言われたって気にしない。だけど、それで私じゃない誰かも悪く言われるのは耐えられない。
「見ていないわけがない。君は魅力的だよ。君の研究だって」
「研究! またそれですか? もううんざり! あなたは既に王太子殿下に気に入られているそうではないですか!」
「っ落ち着いて」
「落ち着いています! 今更私を取り込んだって何が変わるわけでもないでしょう?」
「そうだ、変わらない。僕が、」
「だったらっ! だったら、そうやってご自分を顧みない庇い方はやめてください。社交界は尾鰭どころか胸鰭だってつく勢いで大げさに話が回るものです。あなたが知らないはずがない。こんな私との噂なんて消せないかもしれないんです!」
「なら、僕と結婚すればいい」
真っ直ぐな強い瞳が私を捉えた。
「……………………は?」
なにを、言われたんだろう。
ムカムカと髪をかき乱したくなる苛立ちでいっぱいだった頭が、すこんと真っ白になった。
ルシアン様の目線が落ちていく。それを追いかけると、膝の上で組まれた手、その指が白くなっている。
どうして、そんなに力がはいっているの?
どうして、目が合わないの?
「そうしたら言い寄られることもなくなるし、欲しいなら個人の研究室も整えてあげることもできる。君に負担なら公爵夫人の役目もやらなくていい。これまでだって夫人はいなかったんだ、問題ない。僕が君を嫌な目から守ってあげる。君が心から研究できる環境を僕が整えてあげるよ。君は一人でも大丈夫なんだろうけど、これなら僕がしてあげられる」
つらつら、つらつらと流れ出る言葉に、キン、と心が冷えた。
(それってお飾りの妻でいいってことだ。私に研究だけしていればいいと言っているのと同じよ)
それを、あなたが言うの? 他の人と同じようなことを言うの?
私が、あなたを好きなことを知っているくせに!
「……あなたのメリットは?」
どこか弱々しい祈るような声になった。
そうだ、私は欲しい言葉がある。
ただ一言、私のことを好きだからと言ってくれたら……。そしたら、少しはこの頭も冷静に回せるんじゃないかな。
「………………」
ルシアン様は、はっとしたように顔を上げた。
目が常より大きく、唇が薄く開いた、どこか驚いたような顔だ。
(なんで黙るの?)
そのまま暫く固まったあと、ルシアン様は、はあ、と大きなため息をついて項垂れた。
どこからどう見たって、後悔している。
柔らかく波打つ金の前髪をクシャと握ると、私を見つめた。
「……君がいてくれればそれでいいよ」
震えた声で絞り出して言うことがそれ? 私は無用の置物になんかなりたくない。馬鹿にするんじゃない。
「なら、この髪を受け入れる覚悟はおありですか?
周りに色んな事を言われるし、輝かしい公爵家に墨を落とすようなもの。あなたにその気があるのかは知りませんが、子供に遺伝でもしたらどうするのですか?」
分からず屋を前に、トゲトゲした態度になっている自覚はある。でもどうにかできる冷静な自分は残っていない。
「だからね、そんなこと僕は気にならないんだよ。僕は、君が自由に好きなことができればいいと思っているんだけだ」
先程までの淡々とした口調とは違う、いつもの穏やかさを取り戻したような声だった。
それさえも私を逆撫でする。
(ほら、やっぱり、自分のことが勘定に入ってない)
「私はあなたが公平だと知っているけれど、あなたと周りは違う。……あなたも研究を保護したい?
馬鹿にしないでください。あなたの庇護なんてなくても私はやっていける」
はあ、と吐き出す呼吸が荒い。
苦しい。ただ話しているだけなのに。
「エマ嬢、落ち着いて。お願いだから」
落ち着けるわけがない!
こんな大事なこと、そんなサラッというなんて気がしれない。
貴族は政略結婚が普通だけど、だからってこんなのあなたに損しかない。
だいたい。そうよ、だいたい、
「オフィーリア様は?」
「え?」
「彼女を愛しているんじゃないの?」
「……どうしてそうなる……?」
鳩が水鉄砲を食らったような顔って、こんなのかしら。
私だって、ルシアン様がオフィーリア様を愛しているなんて半信半疑だ。
だって、ルシアン様は不誠実な人ではないと思うから。
でも、恋愛のことなんて知らないもの。
「抱きしめていたでしょう?」
「――っ!」
ルシアン様の喉が引きつったように動く。
「それは違う!」
あまりにも強い否定だった。
必死さを隠しもしない姿は、とても珍しい。
どこか遠いところを見るように、なぜか冷静に見れた。
「どう違うの?」
「………………」
ギリギリと唇を噛む音が聞こえてきそうだ。
青い瞳が不安定に揺れている。
何かを訴えかけるように感じるのは、私の都合のいい勘違いに違いない。
だって、彼は何も言わない。
(いいわ。もういい)
「あなたの自己犠牲に成り立つ結婚はしません」
ルシアン様は、目をぎゅっと瞑って何かを耐えるようだった。その白皙は、いつかのように真っ白だ。
でも、問いかけてあげようなんてもう微塵も思えない。頭がかっかと熱い。
気づけば私も唇を噛んでいた。
応接机の上に資料を努めて冷静に置く。
「こちら、実用化検討におけるまとめになります。お目通しをお願いします」
「……エマ嬢」
「では、私はこれで。失礼します」
彼が、はっと顔を上げたが気づかないふりをした。今は何を聞いたって、受け入れられない。
私は振り返らず、扉を出た。目頭がじんじんと熱い。
後悔? してやるもんか。
なのに胸元で揺れるペンダントを、直視するなんてとてもできなかった。




