17. 空の旅は、公爵様も高揚するようです。ところで私用って何ですか?
ブラン様が羽ばたくと、ぶわあっと風が舞って、頭から押さえつけられるような感覚とともに目線が高くなった。
ブラン様は羽ばたきは少なく、すうっと空を滑るようにゆっくりと飛んだ。彼女の身体の揺れに合わせて内臓がふわふわ動く。焦げ茶色の髪もふわ、と浮いて顔にべしりと当たった。
(ひえ〜〜〜〜)
なにこれなにこれ! 初めての感覚。転移のときに落下の感覚があったのとは違って、落ちるだけじゃなくて、うーん、言語化難しい。とにかく気持ちも、内臓も、心臓も落ち着かない。これが、空を飛ぶ感覚。
(高い〜〜! うわあ〜〜)
下を覗くとちょっと背中がゾワっとした。でも、見ていたい。だって、こんな景色見たことない。茶色や赤のレンガ造りの街並みがあんな下に。
少し顔を覗かせた朝日に、きらきら輝いている。
(おもちゃみたい! かわいい!)
カチッ!!
「あ、ブラン様、すみません」
ブラン様の羽毛をいつの間にか渾身の力で握りしめていたようだ。ああ、ブラン様、そんなじっとりとした目で見ないで。もうしませんから。
両の掌を身体の前にかざす。
「鞍に手をつくといいよ。……大丈夫? 怖かったかな」
「いいえ! すみません、舞い上がってしまって」
とは言え、身体が安定しないので鞍をしっかり掴む。指先は少しばかり冷えていた。
朝の上空の空気は、夏でも冷たいんだ。外套のおかげか寒くはない。澄んだ爽やかな風だ。
すごい、すごい。知らなかった。
「よかった。先日、グリュプスに乗りたそうにしていたから大丈夫だと思ったんだけど、体験するのとは勝手が違うよね。喜んでくれるかなと思って、強引だったね」
なんてこと。いつか空を飛んでみたいな〜なんて、あの勇猛なグリュプスを前に間抜けにも考えていたのが筒抜けだったと?
……でも、グッジョブ間抜けな私。
お陰で、私は今、空を飛んでいる。
「ありがとうございます! ルシアン様」
振り向くと、私の長い髪が彼の顔にばさりと掛かった。あばばばばば……。
「す、すみません、すみません」
居た堪れない。昨日から、居た堪れなさしか感じてない。だめだめな私は継続中である。
慌てて泳ぐ髪を掻き集めて、外套の首元に突っ込んだ。
「ははっ」
きゅーん、じゃない私!
隠して、気を逸らして、無になるのよ。
「残念。髪が舞って綺麗だったのに」
うわあ。そのフォローは女性受けを狙いすぎててちょっと引きます、ルシアン様。
「……その顔は何かな? でも冗談抜きに、そんなことしなくていいよ。そろそろスピードを上げるから」
彼が指を振ると、身体を走り抜けていた風がピタリとなくなった。
「あれ?」
ブラン様の羽ばたきとともに身体は揺れるのに、頬を空気が撫でないのがとても変な感じだ。
「空気の膜だよ。風や塵なんかが肌を傷つけることもあるから、本来は飛行の際は膜を張るのが鉄則かな。ブランにゆっくり飛んでもらっていたから、さっきまでのは特別ね」
はいはい、わざわざ特別なんて言わなくていいですからね。
こんな素晴らしい体験をさせてもらったら、さすがにそんな期待感、若干、本当に若干ありましたけど、気を逸らしていたんですからね。わざわざ言語化しなくともいいんですよ。
はあーー。これだから、紳士は良くない。
レディファーストが板につきすぎて、あなたの言葉の影響力を見誤っておりますよ? この鈍感さんめ!
「……エマ嬢?」
いけないいけない、無になろうとしすぎて、顔が平坦になっていた。
そうだ、この機会にこの魔法を楽しまないと損よね!
手を前にうんと伸ばしてみる。特に変化はない。
そのまま上に動かしてみた。お? 指先がぽよ、と何かを押し上げる感覚があって、先程までの爽やかな風に触れた。
おおー。これが空気の膜。
感触が面白くて、指先で何度もぽよぽよと突いてしまう。
「……圧縮した空気を纏わせる感じかしら? うーん、それよりも自分を起点にして、ボールを膨らませるように意図したところを包むほうがしっくりくるかな」
くすり、と空気を揺らすささやかな笑い声が聞こえた。
私ったら、ぶつぶつと自分の世界に浸りすぎだわ。さすがに失礼。
いえ、それよりも気になることがなかった? 小さな声も聞こえなかった?
空気の膜のお陰で、耳元をざわざわと流れていた風がなくなって、静かだ。
――なんだか、これは、もしかしなくとも、二人きりというやつでは?
いやいや、正気に戻るのよ。お尻の下にブラン様がいるのに、この思考はますます失礼だわ。
「君の思考は面白いね」
え!? バレてる!? 何事!?
「騎士団では、空気を圧縮して作るように教えられるんだ。君の言うようにボールに例えて教えたほうが、隊士にも身近で習得が早くなるかもしれない。魔法はイメージだからね」
ああ、そっち! そっちね!
「そ、そそ、そうですね!?」
「?」
わあ、我ながらとても挙動不審。
けれど出会って六年。ルシアン様は、そんな私の奇行にも慣れたのか、流すことにしてくれたらしい。
「さあ、速度を上げるよ。手を膜から出さないでね」
ブラン様は、ぶわりと大きく羽ばたいた。途端、身体が前に強く引っ張られ、首ががくっと後ろに倒れた。
顔! 私の顔付いてきている? 淑女の顔してる!?
前を向いていて本当に良かった。
風が肌を傷つけるというのも納得の加速度を感じる。けれどブラン様の羽ばたきは驚くほど静かだ。
さすがフクロウ、猛禽類。
(ブラン様、あんなに優雅な佇まいな上に機動力抜群とか格好いいですね!)
羽音はなく、眼下の景色は遠くゆった移動して見える。凄まじい速度も、一定になってしまえば分からない。
(私の手前勝手な探求心を満たすまで、速度を上げるのを待ってくれていたのね)
……時間押してないかしら?
……それよりも、致命的なことを思い出した。
「あの、今さら非常に聞きづらいのですが、……どこに向かっているのですか?」
「ははっ。やっと聞いてくれた。何も言わずに素直についてくるものだから、どうしようかと思ったよ」
あ゙ーーーーー。
どうしたんでしょう、ルシアン様。今日は笑みの大盤振る舞いでは?
……それだけ私が馬鹿やっているという証明ですね……。
「ラクリマ湖に行こうと思って」
「え?」
そうよねそうよね、お仕事ですよね。わかっていました。
うわーー。うっかり浮ついている私、恥ずかしいやつ過ぎる。穴があったら入りたい。ブラン様の羽毛に埋まりたい。
「……今回は転移は使わないのですね?」
ちょっと不貞腐れた感じになったのは、その広い度量で受け流してください。
「うん。私用で騎士団の執務室に飛ぶわけにはいかないからね」
「………………………………え?」
私用!? 今、私用って言った!?
私用……、私の用。あ、私の用! 私、ラクリマ湖に用なんてあったかしら?
「……バレッタ、直したんだね」
え? 急にどうして切なげな表情なのですか? 何がありました?
「へっ? あ、はい! これは強力なお守りなので!」
あっ! 余計なことまで言った! そんなつもりで渡したんじゃないのにお守りとか、ご本人に直接的言うなんて、……ちょっと引きません!?
ああほら! びっくりしたような顔してる!
「そう。……それならよかった」
こちらの台詞ですが!?
「嫌なこと思い出させてしまわないかと思って」
――ああ。なるほど、そういうこと。
(それはネガティブが過ぎますよ)
「思い出しません」
思い出すのは、茜色の図書室と、あなたの澄んだ青い瞳。あのときの頼もしい背中と安心感。それだけ。
「これは私のお守りです。絶対にそうです。あなたがそうしてくれたんです。だから、ルシアン様がそんなふうに思わないでください。……そんな顔をしないでください」
悲しいような、悔しいようなそんな顔、あなたには似合わない。
「君は、強いね。いつも一人でいつの間にか乗り越えている。君は一人で大丈夫なんだろうね」
――そうですね。
この髪で苦労したときから、そうあれる自分でいたいと思ってここまできました。
でも、でもね。ルシアン様。私ね、あなたにそう思われるのは……。
「僕が君の助けになれることはないんだろうなあ」
はあ??
「いいですか、ルシアン様。捕まったときだってあなたが助け出してくれましたし、第一分隊の皆様が私を受け入れてくださったのもあなたがとりなしてくれたからです。そもそも私が腐らずにいられたのは、学生のときにあなたが認めてくださったからです。情けないことに私はたくさん助けて頂いています。あの、だから……、あなたは凄いってことです!」
あれ? 言いたいことはこれで全部だったかしら。
もっとうまく言えたはずなのに、最後はしっちゃかめっちゃかだわ。発表なら減点物。
ほらあ、ルシアン様も苦笑しちゃってる。
「君に言われると、素直に受け入れられるのはどうしてだろうね」
……それは、私が腹芸もできない阿呆だからですね。
QED。証明終了。
「それ、貸してくれる?」
「このバレッタですか?」
「うん。ほら、僕魔力が多いから、しばらく近くに置いていたら魔石の魔力が回復するかも。僕が直接補填できると早いんだけど、正直に言うと苦手なんだよね」
そもそも魔石への魔力の補填は非常に難しい。私みたいに魔力少ないと補填できないし、高すぎると魔石を壊しかねない。かなりの練度が必要だ。
圧倒的な魔力を持つルシアン様は、身のうちに収まりきらない魔力が多少漏れ出ているのかもしれない。
(それなら確かに壊さず、ゆっくり補填できるかもしれないわ)
魔力を回復してもらえるのは純粋に嬉しい。バレッタをパチリと外し、ルシアン様に渡した。
ふと一つ疑問が浮上する。
「……聖女様は魔力補填、できますよね……?」
聖女様は魔力を込めて護符を作ったりするお勤めがあるからできると思って疑ったことすらなかった。もしそうでなければ、今のプロジェクトの光魔石の魔力補填方法を一から見直さなければならない。
「うん。彼女たちは幼いうちから訓練されている。できるよ」
一安心である。




