雨宿りの約束 最終話
夏の終わりは、いつも曖昧だ。
気づいたら蝉の声が減っていて、気づいたら風が少しだけ涼しくなっている。
そして、気づいたら――関係も変わっている。
「おはよう」
教室に入って、僕は自然に声をかけた。
「……おはようございます」
柊は少しだけ間を置いてから返した。
それでも、ちゃんと目を見てくる。それだけで、前とは全然違う。以前なら、目が合えば逸らして終わりだった。
今は、少しだけぎこちないけど、ちゃんと“会話”になる。
それが、思っていたよりもずっと嬉しい。
「今日、暑いね」
「はい。九月とは思えません」
「まだ夏って感じする」
「でも、もう終わりです」
柊は窓の外を見る。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「終わりって、そんな言い切る?」
「季節はそういうものです」
「なんか寂しい言い方」
「……そうですか?」
首を傾げる。
本気でそう思っていない顔だった。
やっぱりこの人は、少しだけズレている。でも、そのズレが、今は心地いい。
「放課後、どうしますか」
柊が言う。
「え?」
「バス、乗りますか」
「ああ……うん、乗るよ」
「では、一緒に」
さらっと言われる。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
前は「雨の日だけ」だった。
今は違う。
晴れていても、こうして約束ができる。
それが、こんなに大きなことだとは思わなかった。
♢♢♢
放課後。
空は、綺麗に晴れていた。
「雨、降らないですね」
「残念?」
「少しだけ」
柊はそう言って、ほんの少し笑う。
「傘、持ってきてるのに」
「え、なんで?」
「習慣です」
「それ、もう必要なくない?」
「……そうかもしれません」
でも、手放さない。
その傘は、相変わらず少しだけ歪んでいた。
「それ、まだ使ってるんだ」
「はい」
「新しいの買えばいいのに」
「まだ使えるので」
前と同じやり取り。
でも今は、その意味が少し違って聞こえる。
“使えるから使う”だけじゃなくて、たぶん――“捨てたくないから使っている”。
そんな感じがした。
「ねえ、柊」
「なんですか」
「夏休み、結局あんまり会えなかったね」
「はい」
「雨、降らなかったし」
「降りましたよ」
「え?」
「何日か」
「マジで?」
「はい」
「なんで連絡くれなかったの」
言ってから気づく。
そもそも、連絡先を知らない。
柊も同じことに気づいたのか、少しだけ目を伏せる。
「……連絡先、知らないので」
「だよね」
気まずい沈黙。
でも、逃げる理由にはしたくなかった。
「交換する?」
「……いいんですか」
「むしろ今までしてなかったのがおかしいでしょ」
「そうかもしれません」
スマホを取り出す。
少しだけ手が震えているのは、たぶん気のせいじゃない。
連絡先を交換する。ただそれだけなのに、妙に緊張する。
「……これで、雨の日じゃなくても」
柊が小さく言う。
「会えますね」
「うん」
その一言が、やけに重く感じた。
♢♢♢
それから、少しずつ変わっていった。
昼休みに一緒にご飯を食べるようになって、帰りも一緒にバスに乗って、たまにメッセージを送り合う。
特別なことは何もない。でも、“何もない時間”を共有できるようになった。
それが、前とは決定的に違う。
ただ――ある日、ふと気づいた。
柊が、少しだけ距離を取る瞬間がある。
話しているときに、ほんの一歩だけ離れる。
視線を逸らす時間が、少し長くなる。
理由はわからない。でも、確実に何かが引っかかっている。
「ねえ、柊」
「なんですか」
「なんか、避けてる?」
思い切って聞いた。
柊は一瞬だけ固まった。
「……避けていません」
と答える。
「ほんとに?」
「はい」
でも、その声は少しだけ弱かった。
「じゃあなんで」
「……」
黙り込んだ。そして。
「近すぎると、怖いので」
ぽつりと、そう言った。
「怖い?」
「はい」
「何が?」
柊は少しだけ考えてから答えた。
「失うのが」
胸が、少しだけ締め付けられる。
「……事故のとき?」
「それもあります」
「それも?」
「……元々、そういうの、苦手なので」
そういえば、と思う。
柊は最初から、どこか距離を保つ人だった。
傘の中では近いのに、それ以外では遠い。その理由が、今なら少しわかる気がした。
「でもさ」
僕は言う。
「離れてても、失うときは失うよ」
「……」
「だったら、近くにいたほうがよくない?」
柊は、少しだけ目を見開いた。
そして、困ったように笑う。
「極論ですね」
「そう?」
「はい。でも……」
少しだけ間を置いて言った。
「嫌いじゃないです」
その言葉に、少しだけ安心する。
「じゃあさ」
「はい」
「もうちょっとだけ、近くにいてよ」
柊は、ほんの少しだけ躊躇ってから答えた。
「……努力します」
その“努力”が、柊らしいと思った。
♢♢♢
帰り道。
空は少しだけ曇っていた。
「降りそうだね」
「そうですね」
「傘、ある?」
「あります」
そう言って、あの傘を差す。
「入ります?」
少しだけ意地悪な顔で言われる。
「もちろん」
僕は笑って答える。
傘の中。前と同じ距離。
でも、意味は全然違う。
「ねえ、柊」
「なんですか」
「この傘、いつまで使うの」
「壊れるまで」
「そっか」
「はい」
少しだけ考えて、柊が聞いてくる。
「……壊れたら、どうしますか」
「どうするって?」
「新しいの、買いますか」
「一緒に?」
「……はい」
少しだけ照れたように言う。
「いいね、それ」
「約束、ですか」
「うん、約束」
柊は小さく頷く。
また一つ、約束が増えた。
今度は、雨だけに縛られない。
でも――たぶん僕らは、これからも雨を好きでいる。
あの日、あの場所で始まったから。
雨宿りの中でしか言えなかった言葉が、確かにあったから。
そして今は、晴れていても、ちゃんと隣にいられる。それが、少しだけ不思議で、とても、嬉しかった。
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