雨宿りの約束 第2話
翌日も、雨だった。
夜のうちに降り続いた雨が、朝の空気にまだ冷たさを残している。アスファルトには薄い水膜が張り、街路樹の葉からはぽたぽたと雫が落ちていた。
僕は、少しだけ早くバス停に行った。
昨日と同じ場所。同じ屋根。同じ頼りない構造。
雨粒がトタン屋根を叩く音が、一定のリズムで耳に入る。湿った空気が肌にまとわりつく。
そして──
「……早いですね」
柊がいた。
昨日と同じ傘。同じ表情。
でも、雨に滲んだ光の中で見るその姿は、昨日よりも少しだけ近く感じた。
「そっちこそ」
「私はいつもこの時間です」
「僕が早いだけか」
「そうですね」
自然に、傘に入る。
傘の布地に当たる雨音が、二人の距離を包み込むように響く。
昨日よりも距離が近い。昨日よりも会話が軽い。昨日よりも、少しだけ楽しい。
湿った空気の中で、彼女のシャンプーの匂いがふわりと混じった。
そんな日が、何日も続いた。
雨の日だけの関係。晴れの日は話さない。学校でも、ほとんど目も合わせない。
でも、バス停では違う。
雨粒が屋根を叩く音が、僕らの会話の合図みたいになっていた。
ある日、僕は聞いた。
「なんで、学校だと話さないの?」
「話してもいいんですか」
「いいでしょ別に」
「……じゃあ、明日話します」
「ほんとに?」
「はい」
でも、翌日。
教室で目が合ったとき、柊はほんの少しだけ視線を逸らした。
教室のざわめきの中で、その仕草だけが妙に静かに見えた。
結局、その日は一言も話さなかった。
放課後、バス停で会ったとき。
「話さなかったね」
「はい」
「なんで」
「……なんとなく」
それだけだった。
でも、その「なんとなく」が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
雨に濡れたアスファルトが、彼女の声を吸い込んでいくようだった。
僕はそれ以上聞けなかった。それでも、雨の日は続いた。
傘の下の時間は続いた。
少しずつ、少しずつ、距離が近づいていく。
名前を呼ぶようになって、好きなものを知って、どうでもいい話で笑うようになって。
雨粒が落ちるたびに、関係が少しずつ積み重なっていくようだった。
でも、それは全部、雨の日だけの話。
晴れたら消える関係。まるで、雨粒みたいだった。
そして、梅雨が終わった。
空は毎日、雲ひとつない青。
雨が降らなくなった。バス停に行く理由もなくなった。
柊と話す機会も、なくなった。
教室で見かけても、何も言えない。
夏の光が強すぎて、あの薄暗い雨の日の距離が嘘みたいに思えた。
向こうも同じだった。
あの時間が嘘みたいに、何もなかったことになる。
それが、妙に苦しかった。でも、どうすればいいのかわからなかった。
約束は「雨の日」だったから。
条件が消えたら、関係も消える。
それだけの話。──そう思っていた。
夏休み前の最後の日。空は、珍しく曇っていた。
湿った風が吹き、空気がざわついている。
帰り道、ポツリと雨が落ちてきた。
ほんの一滴。でも、それで十分だった。
僕は走った。バス停へ。
アスファルトに落ちる雨粒が増えていく。
息を切らして辿り着く。
そこに──
「……来ると思いました」
柊がいた。
傘を持って。少しだけ笑って。
曇り空の下、その笑顔は雨よりも静かで、確かなものに見えた。
「一滴だけどね」
「雨は雨です」
「ずるいな、それ」
「ルール通りです」
そう言って、傘を差し出す。
「入ります?」
初めて会った日の言葉。
僕は笑った。
「うん」
と答えた。
傘の下は、少しだけ狭くて、でも前よりもずっと近かった。
雨粒が布地を叩く音が、心臓の鼓動と重なる。
「ねえ、柊」
「なんですか」
「夏休み、会える?」
少しの沈黙。
曇り空の光が、彼女の横顔を淡く照らす。
「……雨が降れば」
「降らなくても」
「……」
彼女は少しだけ目を伏せた。
濡れた睫毛が揺れる。
「考えておきます」
とだけ言った。
それが、僕らの関係の限界だった。でも、そのときは、それでもいいと思った。
雨があれば会える。
それだけで十分だと。
――本当は、違ったのに。
♢♢♢
夏休みが始まって、一週間後。
蝉の声がうるさいほど響く昼下がり。
ニュースで、大きな事故が流れた。
終点近くのバスが、土砂崩れに巻き込まれたらしい。
運転手と数名が怪我。
乗客の中に──名前があった。
柊の名前。
頭が真っ白になった。
テレビの音が遠ざかり、蝉の声だけが耳に残った。
すぐに病院を調べて、走った。
真夏の熱気の中、息が焼けるようだった。
受付で名前を伝えると、少しだけ困った顔をされた。
「面会は、家族の方のみで……」
「クラスメイトです」
「申し訳ありません」
それ以上は、何も言えなかった。
ただ、待合室で座っていることしかできなかった。
白い壁と消毒液の匂いが、やけに冷たく感じた。
どれくらい時間が経ったかわからない。
ふと、声がした。
「……佐伯くん」
顔を上げるとそこに、柊がいた。
少しだけ包帯を巻いて、でもちゃんと立っていた。
蛍光灯の光が、彼女の頬を柔らかく照らす。
「柊……!」
「大丈夫です」
先に言われた。
「軽傷なので」
「よかった……」
本当に、よかったと思った。
力が抜けて、その場に座り込みそうになる。
「なんでここに」
「ニュースで……」
「そうですか」
少しだけ、気まずい沈黙。
病院の空調の音だけが、二人の間を流れる。
「……会えましたね」
柊が言う。
「雨、降ってないけど」
「例外ということで」
少しだけ笑う。
その笑顔を見て、やっと実感が湧いた。
本当に、ここにいる。
無事でいる。
「ねえ」
「はい」
「もう、雨の日だけじゃなくていいよ」
言葉が、自然に出た。
「普通に、話そう」
「学校でも」
「夏休みでも」
「晴れの日でも」
柊は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……約束、ですね」
「うん、約束」
今度の約束は、消えない気がした。
天気に左右されない、ちゃんとしたもの。
外では、ようやく雨が降り始めていた。遅れてきたみたいに。
でも、もう関係なかった。
僕らは、傘を持っていなかったけど、それでも一緒に歩けると思った。
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