雨宿りの約束 第1話
駅前の古びたバス停には、屋根があるくせに、ほとんど雨を防ぐ気がないらしい。
ポツポツと降り出した雨は、すぐに本降りになった。斜めから吹き込む風が、屋根の下にまで雨粒を運んでくる。
「意味ないじゃん……」
僕はそう呟きながら、リュックを胸の前に抱え込んだ。制服の肩がじわじわと濡れていく。
部活帰りだった。美術部なんて、雨の日は特に帰るタイミングを逃す。絵の具を乾かしているうちに空が暗くなって、気づいたらこうして土砂降りだ。
バスは一時間に一本。あと二十分。
最悪だ。
「……あの、よかったら」
声がした。
顔を上げると、バス停の端に立っていた女の子が、傘を少しだけこちらに傾けていた。
「入ります?」
淡々とした口調だった。無理に優しくしようとしている感じじゃなくて、ただ事実として「入れるけど?」と言っているだけみたいな。
「あ、いや、大丈夫です」
反射的に断る。
見知らぬ人と傘に入るなんて、なんとなく気まずい。しかも同い年くらいの女子となればなおさらだ。
「そうですか」
彼女はあっさり引いた。それで終わると思った。
でも、数秒後。
「……でも、濡れてますよね」
「まあ、ちょっと」
「ちょっとじゃないと思いますけど」
ちらりと見られる。視線が冷静で、なんだか見透かされている気分になる。
「風、強いですし」
言われてみれば、その通りだった。
バス停の屋根はほぼ意味をなしていない。むしろ中途半端に防いでいるせいで、雨の流れが変な角度で跳ね返ってきている。
「風邪ひきますよ」
「……」
少しだけ、迷う。
その沈黙をどう解釈したのか、彼女は少しだけ息をついた。
「じゃあ、勝手にやります」
そう言って、一歩近づいてきた。
気づいたときには、僕の肩の上に傘がかかっていた。
「あの」
「いいから」
短く言い切られる。
それ以上拒む理由もなくて、僕は結局、そのまま彼女の傘に入ることになった。
距離は、妙に近い。肩が触れそうで触れないくらい。
雨音が強くて、会話がないと妙に気まずい。
「……ありがとう」
「別に」
そっけない返事。
でも、不思議と冷たい感じはしなかった。
「同じ学校ですよね」
彼女が言う。
「あ、うん」
「美術部」
「なんでわかるの?」
「絵の具の匂い」
言われて、自分の指先を見た。確かに、まだ少し青い絵の具が残っている。
「そっちは?」
「帰宅部」
「即答だね」
「特に言うこともないので」
会話は淡々としている。でも、途切れない。不思議なバランスだった。
名前も知らないのに、完全な他人とも思えない距離。
「バス、よく使うんですか」
「まあ、雨の日は」
「私は毎日です」
「へえ」
「家、遠いので」
それだけ言って、彼女は少し遠くを見る。
雨の向こう、滲んだ街灯の光がぼんやりと揺れていた。
「遠いって、どれくらい?」
「終点」
「それは遠い」
「だから、こういうの慣れてます」
そう言って、傘を少し持ち直す。
僕の方に傾きすぎていたのか、彼女の肩がだいぶ濡れているのに気づいた。
「あ、ちょっと、そっち濡れてるよ」
「大丈夫です」
「いや大丈夫じゃないでしょ」
「私はいいんです」
「なんで」
「……」
少しだけ、間が空いた。
「私、あんまり風邪ひかないので」
「理由になってない」
「そうですか」
会話がまた少し止まる。でも、気まずくはない。
ただ、雨音だけが続く。
そのとき、ふと気づいた。彼女の傘、少し古い。骨が一本、歪んでいる。
「それ、壊れてる?」
「ちょっとだけ」
「買い替えないの?」
「まだ使えるので」
また、同じ調子の答え。
なんだろう、この人。節約家というか、諦めがいいというか。いや、違う気がする。
「名前、聞いてもいい?」
思わず言っていた。彼女は少しだけ目を細める。
「どうして」
「いや、なんとなく」
「なんとなく、で名前を聞くんですか」
「だめ?」
「だめじゃないですけど」
少し考えるようにしてから名乗る。
「……柊です」
「僕は、佐伯」
「知ってます」
「え?」
「クラス同じなので」
「マジで?」
「マジです」
衝撃だった。
「全然気づかなかった」
「でしょうね」
柊は淡々と返す。
「佐伯くん、基本的に人の顔見てないですし」
「そんなことないよ」
「あります」
「ありますって断言された」
「だって、今も半分くらい空見てました」
図星だった。
なんだか恥ずかしい。
「柊は……その、なんで僕のこと知ってるの?」
「席が斜め後ろなので」
「そんな近いのに?」
「はい」
「全然記憶にない……」
「でしょうね」
また同じトーン。
でも今度は、少しだけ口元が緩んでいる気がした。
笑っているのかもしれない。気づかなかっただけで、ずっと近くにいた人。
それが急に現実味を帯びてくる。
「……じゃあ、今日が初めて話すってこと?」
「そうなりますね」
「なんか変な感じ」
「変ですか」
「うん。もっと前から話してた気がする」
「それは気のせいです」
即答だった。
でも、完全に否定するでもないような、曖昧な言い方。
バスのライトが遠くに見えた。
「あ、来た」
「来ましたね」
少しだけ、残念だと思った。理由はわからない。ただ、この時間が終わるのが惜しい。
バスが停まり、ドアが開く。
僕らは一緒に乗り込んだ。
中はそこそこ空いていて、二人並んで座れる席があった。
自然な流れで、隣に座る。さっきよりも距離が近い。
雨音は、窓越しにやや柔らかくなっていた。
「ねえ」
「なんですか」
「明日も雨だったら、どうする?」
「どうする、とは」
「また一緒に帰る?」
言ってから、少しだけ後悔する。
軽すぎたかもしれない。
でも柊は、少し笑った。
「……バス停で会ったら、ですね」
そう答えた。
「会えなかったら?」
「それは、それです」
「ドライだね」
「現実的と言ってください」
窓の外を見ながら言う。
でも、その声はほんの少しだけ柔らかかった。
「じゃあ、会えたら」
「はい」
「また傘、入れてよ」
「気が向いたら」
「そこは約束でしょ」
「約束、ですか」
柊は少し考えて。
「……では、約束」
小さくそう言った。
その言葉が、妙に嬉しかった。ただの雨宿り。ただのバス停。それだけのはずなのに。
何かが、確かに始まった気がした。
──そのときの僕は、まだ知らなかった。
この約束が、こんなにも長く、そして短いものになるなんて。
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