紅葉に消える恋 最終話
たぬきは、かすかに震える声で言葉を続けた。
「君と過ごした時間が、僕には……あまりにも眩しかったんだ。あんなふうに笑ったのは、きっと何十年ぶりだった」
夜の森は、祭りの喧騒が嘘だったかのように静まり返っていた。
遠くで川の水が岩に当たる低い音がするだけで、あとは、冷えはじめた空気が木々の間を縫って流れていく。
紅葉はすでに盛りを過ぎ、深い朱と褐色が入り混じった葉が、地面を柔らかく覆っていた。踏みしめるたび、かさり、と乾いた音がして、そのひとつひとつが別れを急かす合図のように思えた。
紗夜は涙を拭いながら、一歩、彼へと近づく。
月の光が彼女の頬を照らし、濡れたまつ毛を白く浮かび上がらせた。
しかし、たぬきは小さく身を引いた。
それは拒絶というより、恐れだった。
これ以上近づけば、自分が壊れてしまう。
そんな切迫した感情が、そのわずかな後退に滲んでいた。
「どうして……逃げるの?」
声を絞り出すように問うと、冷たい夜気が喉を刺した。
「君に触れたら……戻れなくなる。あやかしである僕が、人と心を交わし続けることは……許されないんだ」
その言葉は、静かに、しかし確実に、紗夜の胸の奥へ突き刺さった。
痛みは遅れてやってきて、呼吸をするたびに広がっていく。
「そんなの……関係ない! 何があっても藍は藍だよ。例え、人じゃなくても……」
言いかけたところで、たぬきは首を振った。
月光に照らされたその横顔は、どこか人間離れした儚さを帯びている。
「違うんだ、紗夜。あやかしは人の時を奪う。僕たちの存在は、君たちの世界を乱す。君がもし、僕を選べば、その代償を君が払うことになる」
冷たい理屈だった。
だがその奥に、彼自身の恐怖と諦めが潜んでいることを、紗夜は感じ取ってしまう。
唇が震えた。
それでも、逃げずに言葉を探す。
「でも……でも、私は……藍と過ごした時間が、本当に楽しかった……」
その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
祭りの灯り、並んで歩いた紅葉の道、何気ない会話。
それらが一斉に蘇り、喪失の予感とともに押し寄せる。
返事を待つように、風が紅葉を揺らした。
さらさらと、乾いた葉擦れの音が、二人の間に降り注ぐ。
それは、時が砂のように零れ落ちていく音にも似ていた。
青年──いや、たぬきは、その音を聴くように静かに目を閉じる。
「君といられて、幸せだった。君の歌も、笑顔も……僕の中に、これ以上ないほど深く残っている。これ以上、望んではいけないんだ」
「……やめてよ。そんなふうに言われたら、余計に……余計に苦しくなる……」
言葉にした途端、声が震えていることに気づく。
胸が締め付けられ、息が浅くなる。
泣くまいとしていた涙が、堰を切ったように溢れた。
満月が雲間から抜け出し、森を白く照らす。
枝という枝が影を落とし、世界が静止したかのようだった。
その光の中で、たぬきの姿はさらに淡く揺らぎ始めた。
輪郭が滲み、月明かりに溶け込んでいく。
「……どうして、消えかけているの……?」
すがるように問うと、たぬきは小さく微笑んだ。
それは、人間の姿で見せたものと、まったく同じ微笑みだった。
「化けの皮が剥がれた状態で、人間の世界に長くはいられないんだ。月の光は、僕らを元の場所に戻そうとする」
「戻るって……どこへ?」
「君たちが“森の奥”と呼ぶ場所の、もう少し向こう側。あやかしの時が流れる場所だよ」
そこは、紗夜が決して踏み込めない世界。
言葉にされなくても、それははっきりと分かった。
「もう……会えないの?」
たぬきは答えない。
その沈黙が、答えそのものだった。
紗夜は堪えきれず、両手で顔を覆う。
涙が指の隙間を伝い、落ち葉の上に黒い染みを作る。
「嫌だ……こんな別れかた……」
たぬきはそっと近づき、紗夜の足元に鼻先を寄せた。
土と紅葉の匂いに、微かに彼の温もりが混じる。
それは、抱きしめたいのに抱きしめられない者の、せめてもの仕草だった。
「紗夜。僕は君を──“人として”好きになったんだ。だからこそ、君の世界で、生き続けてほしい」
その一言が、深く、深く刺さる。
彼の声も震えていた。
あやかしである彼もまた、涙を流しているように見えた。
風が吹き、紅葉がいっせいに舞い上がる。
空と地の境目が溶け、森そのものが別れを告げているかのようだった。
「紗夜……ありがとう。君に会えて、僕は……本当に救われた。人でいたいと思えるほどに」
「行かないで……!」
手を伸ばす。
だが、彼の輪郭はさらに薄くなった。
触れようとした指先は、風に触れたように空を切るだけ。
「ごめん……。どうしても……どうしても……君に“人間の僕”のままで、最後の笑顔を見せたかった」
その言葉の直後、たぬきの姿は風の中へ融けていった。
輪郭がほどけ、紅葉の色と混ざって──影は小さく、ゆっくりと、消えていく。
「……行かないで……っ……!」
叫び声は、静かな森に吸い込まれ、返ってこなかった。
そこに残されていたのは、散りゆく紅葉の音だけ。
祭りが終わった翌日から、紗夜は森へ足を運んだ。
青年に会えた、あの紅葉の道へ。
だが、彼の姿が見えることは二度となかった。
それでも、風が吹くたびに思う。
──呼ばれたのかい?
──紅葉が散りきるまでは、きっと。
彼の声が、秋風に混じって聴こえてくるような気がする。
笑顔も、切なさも、寂しげに揺れる瞳も。
すべて消えたはずなのに、心の奥で確かに生きている。
紅葉の季節が終わり、冬が訪れる。
山は静まり、夜気は凍りつくように澄んでいった。
それでも紗夜は、森を通るたびに耳を澄ませる。
──また、会える?
──紅葉が散りきるまでは。
その言葉は、季節が巡っても消えず、
彼女の胸に静かな余韻として残り続けた。
それは、彼女だけの秘密であり、
紅葉に消えた恋の、確かな記憶だった。
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