紅葉に消える恋 第3話
秋祭りの夜が来た。
山里は無数の橙色の灯籠に包まれ、昼間の素朴な風景とはまるで別の世界へと姿を変えていた。軒先から吊るされた灯籠は、風に揺れるたび淡く明滅し、その光が石畳や土道に柔らかな影を落としている。人々の影は伸びたり縮んだりしながら、まるで生き物のように足元を這った。
澄んだ笛の音が夜空へと細く伸び、太鼓の低く重たい響きが、腹の底を揺らす。その振動は山肌を伝い、森の奥へと染み込んでいくようだった。音と音が重なり合い、やがて境目を失って、夜そのものの呼吸のように感じられる。
空には雲ひとつなく、冴え冴えとした満月が山里を見下ろしていた。白銀の光は屋根瓦を滑り、紅葉した木々の枝先を照らし、赤や橙を淡い銀色へと変えている。その光景は、どこか現実感に乏しく、夢の中に迷い込んだようでもあった。
紗夜は祭りの準備を手伝いながらも、心はずっと上の空だった。
皿を並べ、料理を運び、声をかけられれば笑顔を返す。身体は自然に動いているのに、胸の奥だけがざわついている。太鼓が打ち鳴らされるたび、その振動が心臓を直に叩き、不安を呼び起こした。
──今日が、最後になるかもしれない。
青年が言ったその言葉が、頭の中で何度も反復される。
なぜ、あんな言い方をしたのか。
なぜ、理由を教えてくれなかったのか。
考えるほどに胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
祭りは次第に熱を帯び、人々は笑い、食べ、踊り、夜へと声を放っている。屋台の甘い匂い、焼けた味噌の香ばしさ、子どもたちのはしゃぐ声。
それでも紗夜には、そのすべてが遠く感じられた。自分だけが、祭りの輪の外側に立っているような感覚。
気がつけば、足は自然と森の方へ向いていた。
灯籠の光が途切れると、そこから先は紅葉に覆われた細い道が続いている。昼間には鮮やかだった葉は、月光を受けて淡く輝き、踏みしめるたびに、さらりと乾いた音を立てた。
森の奥へ進むにつれ、祭りの音は少しずつ遠ざかっていく。代わりに、虫の声、枝葉の擦れる音、自分の足音と心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に残った。
夜の空気は冷たく、頬に触れる風が、現実へ引き戻そうとする。
そのとき──
月明かりに照らされた木立の隙間に、一人の青年が立っているのが見えた。
青年は動かず、ただそこに佇んでいた。
その姿は月光と影の境界に溶け込み、輪郭が曖昧で、今にも消えてしまいそうだった。胸の奥が、ひやりと冷える。
「……来てくれたんだね」
振り返った青年は微笑んでいた。だが、その目元は泣き出しそうに揺れている。
紗夜は一歩、彼に近づく。紅葉が足元で静かに擦れ、その音だけが、二人を現実につなぎとめているようだった。
「約束したんだから……当たり前だよ」
その言葉を聞いた瞬間、青年はそっと目を閉じた。胸に刺さった何かを、必死に堪えているように見えた。
「紗夜……今日の君は、いつもより綺麗だ」
「祭りだから、そう見えるだけ……」
照れ隠しに視線を逸らすと、青年は小さく首を振る。
「違う。……君が、僕に会いに来てくれたからだよ」
その声は、あまりにも優しく、あまりにも切なかった。紗夜は思わず息を呑む。
そのとき、遠くから笛の音が再び聞こえてきた。先ほどよりも澄み、強く、夜を裂くような音色。
青年の肩が、かすかに震えた。
「……ああ、もうすぐだ」
月明かりが一段と強まり、紅葉の影が地面で波のように揺れる。
「もうすぐって……何が?」
不安に駆られ問いかけると、青年は一瞬だけ視線を逸らし、それから覚悟を決めたように紗夜を見た。
「紗夜。もし、僕が……君の思う“人間”じゃなかったら……それでも……」
言い終わる前に、笛の音がひときわ大きく響いた。
青年の輪郭が揺れる。ぼやけ、滲み、月光の中で形を保てなくなっていく。
「っ……!」
紗夜は反射的に後ずさった。
「だめだ……近づかないで……!」
青年は苦しげに声を上げ、膝をついた。
「笛の音は……“化けの皮”を揺らすんだ。僕らにとっては……毒みたいなものなんだよ」
身体が軋み、影が裂けるように歪む。人の形が、保てなくなっていく。
「待って……どうして、そんな……!」
「ごめん……本当は、もっと早く言うべきだった……でも……君と過ごす時間が……あまりに幸せで……」
声は震え、掠れ、夜に溶けていく。
そして──笛の音が頂点に達した瞬間。
青年の姿は、ひび割れた硝子のように崩れ落ちた。
光が弾け、影が収縮する。
そこに現れたのは、人の姿ではなく──一匹のたぬきだった。
黒い毛並み、丸い耳、太い尾。
紅葉の上に立つその姿は、紛れもなく“あやかし”のものだった。
けれど、その瞳だけは、確かに青年のままだった。
「……どうして……どうして、隠していたの?」
声が震え、喉が詰まる。
たぬきはゆっくりと紗夜を見上げる。
「紗夜……君と同じ時を生きたかった。人として、君と話したかった……でも、僕は……ただのあやかしなんだ」
一歩、紅葉を擦るように近づく。
「怖がらせたくなかった。嫌われたくなかった……だから、君の前だけは“人”でいようとした」
笛の音は完全に遠ざかり、森は深い静寂に包まれた。
月明かりだけが、二人を等しく照らしている。
紗夜の胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
そして、一粒の涙が頬を伝い、紅葉の上に落ちる。
それは、月明かりを受けて、かすかに光った。
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