紅葉に消える恋 第2話
それからの日々、紗夜の暮らしは穏やかに流れていた。
朝はまだ少し冷たい空気の中で目を覚まし、学校から帰れば宿題を済ませ、夕方には畑に出て母と一緒に土に触れる。夕陽が傾くころ、野菜籠を抱えて家へ戻り、台所では味噌と煮物の匂いが立ち上る。
そんな、これまでと何一つ変わらない日常。
──けれど、紗夜の心だけは、どこか上の空だった。
鉛筆を走らせていても、鍬を握っていても、気づけば森の奥を思い浮かべている。
彼に会う時間が近づくたび、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなった。
まるで胸の中に小さなことりが巣を作り、今にも羽ばたこうとしているような感覚。
彼に会えば、ふっと肩の力が抜ける。
けれど別れると、その安心よりもずっと大きな寂しさが、波のように押し寄せてくる。
「……私は、どうしてこんなに」
夕餉の支度の途中、思わず零れた独り言は、鍋の中に溶けて消えた。
自分の気持ちに戸惑いながらも、夕暮れの森へ向かう足は、今日も自然と動いてしまう。
止めようと意識するほど、足取りは早くなった。
その日の森は、特別に美しかった。
赤、橙、黄──幾重にも重なる色彩が、木々を染め上げている。
西日が差し込むたび、葉の縁が透け、光を受けてきらきらと瞬いた。
風が吹けば、乾いた葉音が一斉に鳴り、色づいた葉が舞い落ちていく。
その中心に、彼は立っていた。
紗夜はその姿を見つけた瞬間、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
「今日も来てくれたんだね」
柔らかな声。
それだけで心臓が跳ね、鼓動が早まる。
「……来ないわけ、ないから」
小さく、けれどはっきりとそう言うと、青年は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それから静かに笑った。
どこか照れたようで、嬉しさを隠しきれない笑顔だった。
風が吹くたび、彼の髪が揺れる。
その揺れ方は人のものよりも軽やかで、まるで風と一緒に存在しているかのようだった。
強い風が吹けば、そのまま溶けて消えてしまいそうな──そんな危うさを帯びている。
紗夜はふと、胸に小さな違和感を覚えた。
──この人は、どうしてこんなにも儚く見えるのだろう。
「君は、村の祭りが楽しみなのかい?」
青年が、紅葉を見上げたまま尋ねる。
紗夜は少しだけ考え、言葉を探した。
「楽しい、とは思う。……でも今年は、なんだか胸がザワザワしてる。理由は、よくわからないけど」
「ザワザワ……」
青年はその言葉を、ゆっくりと繰り返した。
まるで、何か懐かしいものを確かめるように。
「それは、多分……季節が、終わりの気配を連れてくるからだよ」
「季節の……終わり?」
青年は答えず、しばらく紅葉の海を見つめていた。
夕暮れの光が彼の横顔を照らし、長い影を地面に落とす。
「紅葉が散りきる頃、森は一度、息を止めるんだ。人とあやかしの世界の境も、その時だけ少し軋む」
その言葉の意味を、紗夜は理解できなかった。
けれど、青年の表情があまりにも寂しげで、理由もなく胸が痛んだ。
「……ねえ」
紗夜は意を決して、声をかける。
「あなたは、どこから来たの?」
青年は一瞬、動きを止めた。
風の流れすら静止したような錯覚が走る。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「遠くから。……いや、近いのかもしれない。君たちが気づいていないだけで、僕らはすぐそばにいるんだ」
「僕ら……?」
思わず聞き返すと、青年は困ったように眉を下げて笑った。
「ごめん。わかりにくいよね。……でも、今はまだ言えないんだ」
「言えないって……どうして?」
青年は視線を落とす。
足元に積もった落ち葉を、そっと踏みしめながら。
「言ってしまえば、終わってしまう気がするから」
その言葉が、鋭く胸に刺さった。
紗夜は何かに気づきかけるが、霧に包まれたように掴みきれない。
風が吹き、紅葉が一斉に舞い落ちる。
その中で、青年の輪郭がふっと揺らいだ。
「……っ」
紗夜の心臓が大きく跳ねる。
──今、何かが。
けれど青年はすぐに元の姿へ戻り、紗夜は必死に「見間違いだ」と自分に言い聞かせた。
二人並んで腰を下ろし、落ち葉の上に手を伸ばす。
一枚の赤い葉が、ひらりと紗夜の掌に落ちた。
それを見て、青年が静かに言う。
「紅葉って、散る時が一番綺麗なんだ。……人の心も、きっと同じだよ」
「それ……どういう意味?」
「散りゆくからこそ、光るものがある。終わりの気配が近づくからこそ、強く感じられる想いもある」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
彼の言葉は、まるで自分の気持ちを見透かしているようだった。
「……あなたは、誰なの?」
小さく零れた問いは、知らず別れを予感させる響きを帯びていた。
♢♢♢
秋は、祭りの準備で村全体がそわそわと色めき立っていた。
夕方になると、どこからともなく笛の練習の音が聞こえてくる。
太鼓の低い響きが山に反射し、空気を震わせる。
提灯が軒先に吊るされ、夜の気配が少しずつ濃くなっていく。
その音を聞くたび、紗夜の胸はざわついた。
──青年が夜を避ける理由。
──輪郭が揺らいだ、あの一瞬。
そして、紅葉が散りきるまでは会えるという、不思議な約束。
すべてが一つに繋がりそうで、けれど決定的な答えには辿り着けない。
夕暮れ、紗夜は再び森へ向かう。
青年は、いつものように紅葉の下に立っていた。
だがその姿は、これまで以上に淡く、どこか今にも消えてしまいそうだった。
「紗夜」
名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。
胸が強く揺れ、息が詰まる。
「祭りが……もうすぐだね」
「うん。明日の夜だよ」
青年は、ほんの少し目を伏せる。
「……そうか。明日が、最後になるのかもしれない」
「最後って……どういうこと?」
問いかける声は、震えを隠せなかった。
青年は答えず、ただ落ちていく紅葉を見つめている。
その横顔には、言葉では言い尽くせない切なさが、静かに滲んでいた。
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