忘れもの預かり処 第29話
燃えた紙は、灰にならなかった。
空中で白く光りながら、ゆっくりと遥の手元へ落ちてくる。
遥はそれを受け取った。そこには、たった一つの名前。
風待。
「……消えなかった」
冬香が呟く。
真白は紙を見つめたまま、静かに言った。
「名前を呼び続ければ、忘却は止められる」
「じゃあ、全部の名前を呼べばいいんだね」
遥が顔を上げる。が、真白は答えなかった。その代わり、店の奥を指差した。
そこに、一人の男が立っていた。
「お父さん……」
風待が呟く。
父親は、以前よりずっと小さく見えた。怒ってもいない。笑ってもいない。ただ、疲れた顔で遥たちを見ていた。
「どうして、ここに?」
遥が尋ねる。
「私が呼んだわけじゃない」
女性が答える。
「最後の忘却が始まれば、ここへ戻されるの」
父親が口を開いた。
「もうやめろ」
「何を?」
「名前を呼ぶことをだ」
遥は首を振る。
「嫌」
「そうすれば、お前も苦しむ」
「それでもいい」
「よくない!」
初めて、父親が声を荒らげた。
「覚えていれば、失うたびに苦しむ!」
店の中が静まり返る。
「私は見てきた」
父親は震える声で続けた。
「名前を覚えているから、死んだ者を待ち続ける。帰ってこない者を探し続ける。失ったことを何度でも思い出す」
その顔に、初めて悲しみが見えた。
「だから忘れさせた」
「……私たちを?」
「そうだ」
風待が一歩前へ出る。
「湊も?」
「そうだ」
「春樹も?」
「……そうだ」
「真白も?」
父親は目を閉じた。
「そうだ」
風待の拳が震える。
「それで、僕たちが幸せになると思ったのか」
「少なくとも、生きてはいける」
その言葉に、風待が黙った。
遥は父親を見る。
「お父さん」
「なんだ」
「生きるって、忘れることじゃないよ」
父親が顔を上げる。
「苦しくても、覚えていることはできる」
「そんなものは──」
「できます」
遥ははっきりと言った。
「だって、今の私たちがそうだから」
風待が隣に立つ。冬香も。真白も。そして、川の向こうには春樹と湊としずくがいる。
「忘れたから、ここまで苦しんだ」
遥は言った。
「だから今度は、覚えていることで前に進む」
父親は何も答えなかった。
長い沈黙のあと、小さく笑った。
「……そうか」
その声は、どこか寂しかった。
「なら、私の名前も呼んでみろ」
遥は驚いた。
「お父さんの名前?」
「ああ」
父親は目を伏せる。
「私は、自分の名前すら忘れた」
その瞬間、遥は気づいた。
父親もまた、この仕組みに囚われていた。誰かを忘れさせる側にいたはずの人間が、最後には、自分自身まで忘れていたのだ。
「……お父さん」
遥は一歩近づいた。
「あなたの名前を、私たちは知らない」
父親は苦しそうに笑った。
「そうだろうな」
「でも、知らないなら、探せばいい」
父親の目が揺れた。
「忘れていたなら、思い出せばいい」
遥は帳簿を開いた。
最後のページ。そこには、まだ薄い文字しかない。
風待遥。
遥はペンを取った。
「この店は、忘れるための場所じゃない」
そして、ページの下に一行を書き足した。
『思い出すための場所』
その瞬間、本店中の時計が、一斉に動き出した。
川の向こうから、誰かの声が聞こえる。
「遥」
春樹だった。
「湊」
今度は風待が呼ぶ。
「真白」
遥が呼ぶ。
「しずく」
冬香が呼ぶ。
名前が一つずつ、暗闇の中に灯っていく。けれど、最後に残った一枚の紙だけは、どうしても白いままだった。
その紙に書かれていた文字は──
風待遥。
そして、その下には新たな文字が浮かび始めていた。
『最後に忘れるのは──』
白い紙に浮かんだ文字を、遥は見つめていた。
『最後に忘れるのは──』
その先は、なかなか現れない。
「……私?」
遥が呟く。
風待が首を振った。
「違う」
「じゃあ、お兄ちゃん?」
「それも違う」
真白が紙を覗き込む。
「たぶん、これは名前を書くためのものじゃない」
「どういうこと?」
「最後に忘れるのは、人じゃない」
真白は紙を裏返した。
何もない。もう一度表に戻す。すると、文字が変わっていた。
『最後に忘れるのは、忘れるという約束』
遥は息を呑んだ。
「約束……?」
「昔、この家で決めたんだよ」
真白が静かに言った。
「誰かを守るために、誰かを忘れる。そうすれば、残った人は生きられるって」
風待が目を伏せる。
「僕も、その約束を受け入れた。湊も」
川の向こうから声がした。
湊だった。
「春樹も」
春樹が続ける。
「僕もだよ」
しずくが言った。
「私も」
遥は三人を見つめた。
「でも、もう終わりにする」
遥がそう言った瞬間、店の壁に掛けられていた無数の写真が、一斉に揺れた。
写真の中にいた人たちが、こちらを見る。忘れられた人。忘れた人そして、忘れられることで生き延びた人。
そのすべてが、静かに遥を見ている。
「怖くないの?」
しずくが尋ねた。
「怖いよ」
遥は正直に答えた。
「でも、怖いからって、また誰かを忘れるのは嫌」
風待が遥の肩に手を置いた。
「僕も手伝う」
「お兄ちゃん……」
「今度は忘れない」
その言葉に、遥は頷いた。
すると、川の水が、本店の床まで流れ込んできた。
真白が振り返る。
「始まった」
水に触れた写真から、次々に文字が消えていく。
「名前が……!」
冬香が叫ぶ。
春樹の写真から。
──春樹。
湊の写真から。
──湊。
真白の写真から。
──真白。
そして、しずくの写真からも。
──しずく。
遥は走った。
「待って!」
一枚ずつ写真を拾い上げる。
「春樹!」
「湊!」
「真白!」
「しずく!」
写真に文字が戻る。けれど、次の瞬間、風待の写真から、名前が消えた。
「お兄ちゃん!」
遥が叫ぶ。
風待の姿が、写真の中で薄くなる。
「遥!」
「風待!」
遥は何度も呼んだ。
「お兄ちゃん!」
けれど、今度は戻らない。
風待自身が、遥の手を離した。
「もういい」
「よくない!」
「僕のことを忘れても、君は生きていける」
「嫌!」
遥はその手を強く掴む。
「またそれなの?」
風待が目を見開く。
「また誰か一人が消えれば、残った人が生きられるって言うの?」
遥の声が震える。
「私は、それを終わらせるって決めた!」
風待は何も言わない。
「だから、今度は私が覚えてる」
遥は涙を流しながら、彼の名前を呼んだ。
「風待!」
もう一度。
「風待!」
さらにもう一度。
「私のお兄ちゃん、風待竜太!」
その声が店中に響いた。
消えかけていた写真が、光を放つ。
そして、川の向こうからも声が重なった。
「竜太!」
冬香が呼ぶ。
「竜太兄ちゃん!」
湊が呼ぶ。
「竜太お兄ちゃん!」
しずくが呼ぶ。
春樹も笑った。
「お兄ちゃん」
真白が最後に言った。
「竜太兄ちゃん」
無数の声が重なった。
その瞬間、風待の名前が、写真の中に戻った。
けれど、同時に本店の奥で大きな音がした。
──バキン。
古い時計が割れ、店全体が大きく揺れた。
真白が顔を上げる。
「……仕組みが壊れ始めた」
遥は風待の手を握ったまま、頷いた。
もう、誰か一人を残す必要はない。そう信じて。
そのとき、本店の一番奥から、最後の扉が開いた。
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