↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
67/69

忘れもの預かり処 第28話

 川辺に立つ少年は、風待を見つめていた。

 濡れた髪、細い肩。あの日のままの姿。


「……春樹」


 風待が一歩、前へ出る。

 少年は笑った。


「久しぶり、お兄ちゃん」


 その声を聞いた瞬間、風待の目から涙が落ちた。


「お前……」


 言葉が続かない。

 春樹は川の向こう側にいる。手を伸ばせば届きそうなのに、どうしても渡れない。


「どうして、こっちに来ないの?」


 澪が尋ねる。

 春樹は少し困ったように笑った。


「僕は、もうこっちの人じゃないから」


「それって……死んだってこと?」


「分からない」


 春樹は首を振る。


「たぶん、忘れられたまま残ってるんだと思う」


 その言葉に、真白が目を伏せた。


「僕と同じだ」


「真白も?」


「うん」


 真白は自分の胸元に手を置く。


「名前を失った人は、どこにも行けなくなる」


 澪は二人を見た。真白。春樹。そして、しずく。

 みんな、忘れられたことで、この場所に残されている。


「じゃあ、湊は?」


 風待が尋ねた。

 すると真白の表情が変わる。


「……湊もいるよ」


 川面が揺れた。

 水の中に、少年の姿が浮かび上がる。風待と同じ顔。けれど、少しだけ寂しそうに笑っている。


「兄ちゃん」


 風待は息を呑んだ。


「湊……」


「やっと思い出したね」


 湊は水の向こうから言った。


「僕のことを忘れたのは、兄ちゃんのせいじゃないよ」


「でも……」


「僕が頼んだんだ」


 風待が固まる。


「どうして?」


「兄ちゃんが、全部覚えていたら」


 湊は少しだけ笑う。


「兄ちゃんまで消されるから」


 澪の胸が締めつけられた。真白も、湊も、春樹も。誰かが誰かを守るために、自分の名前や記憶を手放していた。

 それが、この家族だった。


「……馬鹿だよ」


 澪が呟く。

 誰も答えない。


「みんな、馬鹿だよ」


 涙がこぼれる。


「どうして一人で決めたの?」


 春樹が目を伏せる。


「怖かったから。忘れれば、誰かが助かるって信じてた。だから、僕たちは忘れることを選んだ」


 澪は首を振った。


「違う」


 三人が澪を見る。


「それは、選んだんじゃない」


 澪は川へ近づいた。


「選ばされていたんだよ」


 風が吹く。

 川面に無数の名前が浮かんでは消えていく。

 しずく。真白。湊。春樹。そして──風待。最後に、澪。


「誰かを忘れないと誰かが生きられない」


 澪は静かに言った。


「そんな仕組みを、私たちが守り続ける必要なんてない」


 川の向こうで、しずくが現れた。

 少女は澪と同じ顔で、静かに微笑んでいる。


「じゃあ……」


 しずくが言う。


「私たちは、どうなるの?」


 澪は答えられなかった。

 忘れられた人たちを救う。そのためには、この仕組みを壊さなければならない。

 けれど、仕組みが壊れれば、ここにいる彼らは──。


「消えるの?」


 澪が尋ねる。

 しずくは首を横に振った。


「分からない」


 そして、少しだけ笑った。


「でも、今度は誰かを犠牲にして残るんじゃない」


 その言葉に、真白が顔を上げた。


「しずく……」


「私、もう名前を失うのは嫌」


 しずくは澪を見る。


「だから、澪」


「うん」


「私のこと、覚えていて」


 澪は涙を拭った。


「もちろん」


「名前も?」


「名前も」


「ずっと?」


「うん」


 澪は、はっきりと言った。


「しずく」


 その瞬間、川の水面が大きく揺れた。

 初めてしずくの姿が、少しだけこちら側へ近づいた。

 そして川の底から、古い扉が浮かび上がる。

 扉には、あの父親が残した言葉が刻まれていた。


 ──忘れれば、生きられる。


 澪はその文字を見つめる。

 そして、その下に手を伸ばした。


 ──なら。


 今度は覚えていても生きられることを、証明すればいい。


「……これ、お父さんの言葉?」


 風待が扉を見る。


「たぶん」


 真白が答えた。


「でも、父さんが作った言葉じゃない」


「じゃあ、誰が……?」


 真白は首を振る。


「分からない」


 澪は扉から手を離した。その瞬間、店の奥で何かが落ちる音がした。


 カタン。


 振り向くと、一つの小さな箱が床に落ちている。

 それを風待が拾い上げた。


「これ……」


 蓋には名前が書かれていた。

 風待。


「僕の……?」


 風待は箱を開けた。

 中に入っていたのは、一枚の古い紙だった。そして、赤いリボン。

 澪の心臓が大きく鳴った。


「それ……」


 風待は紙を広げた。

 そこには、幼い字で書かれていた。


『忘れたくないもの』


 その下に、いくつもの名前が並んでいる。

 冬香。春樹。湊。真白。そして──澪。

 風待の手が震えた。


「僕が……書いたのか」


 冬香が紙を覗き込む。


「でも、どうしてこれを忘れてたの?」


 風待は答えない。

 紙の一番下には、別の文章があった。幼い風待が書いたものだった。


『全部忘れることになっても、これだけは忘れない』


 澪は息を呑んだ。


「お兄ちゃん……」


 風待は紙を握りしめた。


「覚えていたんだ──みんなのことを」


 声が震える。


「僕は、全部忘れたと思ってた。でも違った」


 風待は自分の胸に手を当てた。


 ゆっくりと首を振る。


「忘れたんじゃない。忘れさせられていただけだった」


 その瞬間、店内の時計が一斉に動き始めた。


 チク。

 チク。

 チク。


 澪は帳簿を見る。

 最後の白紙だったページに、薄く文字が浮かんでいた。


 風待遥。


「……」


 遥はその名前を見つめた。

 けれど、何も書き足さなかった。


「これでいいの?」


 女性が尋ねる。


「うん」


「本当に?」


 遥は頷く。


「私は遥だから」


 その言葉に、風待が微笑んだ。


「そうだね」


 けれど、帳簿の文字は、完全には定着しなかった。

 遥が不思議そうに見る。


「どうして?」


 真白が答えた。


「まだ終わってないからだよ。最後の忘却が」


 店の窓が、突然暗くなった。

 外にあったはずの川も、鳥居も見えない。代わりに、無数の白い紙が空から降ってくる。

 一枚。また一枚。紙には、それぞれ名前が書かれていた。

 そして、その名前が一つずつ消えていく。


「始まった……」


 冬香が呟いた。

 風待が遥の手を握る。


「離れるな」


「うん」


 その手の温かさを、遥は強く握り返した。

 けれど次の瞬間。


「……お兄ちゃん?」


 握っていたはずの手が、少しだけ透けた。

 風待の顔から、色が消えていく。


「遥」


「なに?」


「僕の名前を──」


 そこで声が途切れた。

 遥の頭の中から、ひとつの記憶が消えかけていた。


 ──お兄ちゃん。


 その呼び方だけが、どうしても思い出せない。

 遥は必死に叫んだ。


「風待!」


 風待が目を見開く。

 遥はもう一度、その名前を呼ぶ。


「風待!」


 そして涙を流しながら、続けた。


「私のお兄ちゃん!」


 白い紙が、一枚だけ燃えた。そこには、こう書かれていた。


 風待。


そして──その文字は、消えなかった。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。