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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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忘れもの預かり処 第27話

 黒く塗り潰された文字を、澪はじっと見つめていた。


「……私の、本当の名前」


 呟いた声が、静かな店の中に響く。女性は何も言わなかった。ただ、澪の隣に立つ風待を見ていた。


「あなたは、僕たちの母親なんですか?」


 風待がもう一度尋ねる。

 女性は少しだけ首を振った。


「そうとも言えるし、そうではないとも言えるわ」


「どういう意味です?」


「あなたたちが覚えている『母親』は、一人じゃないの」


 冬香が眉を寄せる。


「でも、私たちの母さんは一人だった」


「そうね」


 女性は悲しそうに笑った。


「だからこそ、記憶が分かれてしまったのよ」


 澪には、その言葉の意味が分からなかった。


「記憶が……分かれる?」


「人は、忘れたくないものほど、忘れてしまうことがある」


 女性は棚から一枚の古い写真を取り出した。

 そこには、幼い子供が写っていた。

 風待。冬香。春樹。そして、その少し後ろに──小さな女の子。


 澪は息を止めた。


「これ……」


「あなたよ」


「……私?」


「ええ」


 写真の中の少女は、赤いリボンをつけていた。

 その顔を見ていると、胸の奥が熱くなる。何かを思い出しそうだった。けれど、あと少しというところで、霧がかかる。


「この子は……なんて呼ばれていたの?」


 女性は答えなかった。代わりに、風待を見た。


「それを決めたのは、あなたよ」


「僕が?」


 風待が目を見開く。


「覚えていないの?」


「……分からない」


「そうでしょうね」


 女性は写真を澪へ渡した。


「あなたが妹に名前をつけたの」


 澪は写真を見る。

 幼い風待が、少女の頭に手を置いている。その手つきには、不思議なくらい優しさがあった。


「何て名前をつけたの?」


 澪の問いに、女性が静かに答える。


「──澪」


 その瞬間、胸の奥で、心臓が大きく音を立てた。

 雨。暗い部屋。泣いている小さな女の子。そして、少年の声。


『川はね、どこまでも続いてるんだ。だから、迷っても大丈夫。帰ってこられるから』


 澪の頬を涙が伝った。


「……お兄ちゃん」


 風待が振り向く。


「僕が……?」


 澪は頷いた。


「私に、澪って名前をくれた」


 風待は何も言えなかった。

 女性は静かに目を伏せる。


「だから、最後のページが空白なのよ」


「どうして?」


 澪が尋ねる。


「あなたの名前は、誰かに決めてもらうものではないから」


 女性は黒く塗り潰された文字を指した。


「そこに書かれていたのは、あなたを縛るための名前」


 そして、自分の胸を指す。


「でも、あなたが今持っている『澪』は違う」


「……違う?」


「あなたが、生きていくために選んだ名前よ」


 店の奥で、古い時計が一度だけ鳴った。


 チリン。


 帳簿の黒い文字が、わずかに揺れる。

 そして、その黒が──ほんの少しだけ、剥がれ落ちた。その下から、一文字だけが現れる。

 澪は息を呑んだ。

 それは、見覚えのある文字だった。

 けれど、その文字を見た瞬間、真白が顔を強張らせた。


「……まだ、そこを開けちゃ駄目だ」


「真白?」


 真白は帳簿を閉じた。


「その名前を知ったら──」


 一瞬、言葉に詰まる。


「たぶん、最後の忘却が始まる」


 澪は閉じられた帳簿を見つめた。

 そして静かに言った。


「だったら、なおさら知りたい」


 もう、誰かを忘れるための名前はいらない。今度は──自分で選ぶために。


 澪が帳簿から手を離すと、黒く塗り潰されていた文字は、また何事もなかったように沈んだ。


「……何だったの?」


 冬香が尋ねる。

 真白は答えなかった。代わりに、店の奥にある古い棚へ歩いていく。


「これを見たほうがいい」


 棚から取り出したのは、一つの木箱だった。蓋には、日付が書かれている。


 ──一九八八年六月十二日。


 その数字を見た瞬間、風待の顔色が変わった。


「……その日」


「知ってるの?」


 澪が尋ねる。


「分からない」


 風待は額を押さえた。


「でも……嫌な感じがする」


 真白が箱を開ける。

 中に入っていたのは、古い鍵と、一枚の紙だった。紙には、たった一行。


『名前を持っている子から先に、連れていかれる』


「誰に?」


 冬香が聞くが真白は首を振った。


「それは書いてない」


 澪は鍵を手に取った。冷たく、触れた瞬間頭の中に映像が流れ込んできた。

 雨の夜。古い家。廊下を走る小さな足音。


「早く!」


 誰かが叫んでいる。


「静かにしなさい!」


 母親の声。

 その向こうから、重い足音が近づいてくる。


 ドン。

 ドン。

 ドン。


 扉が揺れた。


「逃げるんだ」


 少年の声。それは風待だった。

 幼い風待が、小さな女の子の手を握っている。


「どこへ?」


「川まで」


「お父さんは?」


 風待は答えなかった。ただ、妹の手を強く握る。


「僕から離れないで」


 次の瞬間、扉が開いた。


「どこへ行く?」


 父親だった。幼い風待が妹を背中に隠す。


「この子は連れていかせない」


「名前を言え」


「嫌だ」


「その子の名前だ」


 少年は黙っていた。父親が一歩近づく。


「名前が分かれば、探せる」


「だから言わない」


「なら、お前の名前を消す」


 その言葉に、風待の顔が強張った。

 映像が途切れる。


 澪は息を呑んだ。


「……お父さんは、私を探していたの?」


 女性が静かに答える。


「違うわ」


「え?」


「あなたを探していたんじゃない」


 女性は目を伏せた。


「あなたの名前を探していたの」


 澪は意味が分からなかった。


「名前を?」


「名前が分かれば、その人を忘れさせることができる」


 真白が続ける。


「だから、兄ちゃんは君に別の名前をつけた」


 風待が顔を上げた。


「僕が……?」


「うん」


 真白は頷く。


「本当の名前を隠すために」


 澪の胸が痛んだ。


「じゃあ、『澪』は……」


「君を守るための名前だった」


 風待は何も言わなかった。


 ただ、澪を見る。

 その目には、長い間忘れていた何かが戻り始めていた。


「……僕は」


 風待が呟く。


「君を逃がしたんだ」


 澪は頷いた。


「うん」


「でも、僕は君を忘れた」


「うん」


「どうして……」


 風待の声が震えた。


 女性が静かに答える。


「忘れなければ、生きられなかったからよ」


 そして澪は気づいた。

 父親が消したかったのは、人そのものではない──名前だった。

 名前を消せば、その人を探せなくなる。その人を忘れれば──生き残れる。

 それが、風待家に受け継がれてきた「忘却」だった。


 澪は拳を握った。


「……でも」


 誰もが顔を上げる。


「もう、そんなことをしなくていい」


 澪は帳簿を見る。


「私たちは、名前を隠さなくていい」


 その瞬間、本店の奥から、低い音が響いた。


 ゴトン。


 古い扉が、ひとりでに開いた。

 その向こうに──川があった。

 そして川の向こうから、少年の声がした。


「……やっと思い出したね」


 風待が振り向く。


「春樹……?」


 川辺に立っていたのは、幼い頃の弟だった。

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