忘れもの預かり処 第26話
風待の顔が、薄れていく。
澪は目を見開いた。
「……え?」
目の前に人がいる。声も聞こえる。けれど、その人が誰なのか分からない。胸の奥に、大きな穴が空いていく。
「澪!」
誰かが叫んだ。その声が、痛いほど懐かしい。でも、思い出せない。
「誰……?」
その一言に、その人の表情が止まった。
真白が唇を噛む。
「始まった」
「何が?」
冬香が尋ねる。真白は川を見る。
「最後の忘却」
川面には、無数の顔が映っていた。忘れられた人たち。名前を失った人たち。その全員が、同じ方向を見ている。
澪だった。
「どうして私を見るの?」
しずくの声が、胸の奥から聞こえた。
『店主だから』
「……店主」
『忘れもの預かり処は、忘れられたものを預かる場所』
「うん」
『でも、本当は違う』
川が揺れ、水面に古い店が映った。
「違う?」
『あの店はね。忘れたくない人を、一人だけ残すための場所なの』
澪は息を呑んだ。
その瞬間、すべてが繋がった。
真白が名前を捨てたこと。風待が店を守り続けたこと。父親が記憶を消したこと。全部は、一つの仕組みだった。
誰かが忘れれば、誰かが残る──誰かが消えれば、誰かが生きる。
そして、その最後の役目を負っているのが──しずく。
「じゃあ……最後に忘れる人は」
真白が頷く。
「兄ちゃんだよ」
澪は首を振った。
「嫌」
「でも、そうしないと」
「嫌!」
声が震える。
「やっと思い出したのに」
風待。お兄ちゃん。髪を結んでくれた人。赤い靴を拾ってくれた人。名前をくれた人。
「忘れたくない」
風待──その人が、静かに笑った。
「大丈夫」
澪は顔を上げる。
「何が大丈夫なの?」
「君は、僕を忘れない」
「でも……」
「忘れてもいい」
その人は言った。
「もし忘れても。僕が、君を覚えてる」
その言葉。昔、聞いたことがあった。雨の夜。小さな手。
『大丈夫。僕が覚えてる』
澪の目から涙が落ちた。
「ずるい」
「何が?」
「そんなこと言われたら、忘れられないよ」
その瞬間、川が大きく波打った。赤い靴を履いた子供たちが、一斉に手を伸ばす。
「時間だよ」
しずくの声がする。
「決めて」
澪は目を閉じた。
忘れるか──残すか。
誰を消して、誰を生かすか。
それが、この家の決まりだった。けれど、澪はゆっくりと首を振った。
「嫌だ──私は選ばない」
『無理だよ』
「無理じゃない」
『誰かを忘れないと』
「なら」
澪は川を見た。
そこには忘れられた子供たち。名前を失った人たち。真白。春樹。しずく。そして、父親。
「仕組みのほうを終わらせる」
全員が息を呑んだ。
父親が初めて表情を変える。
「それはできない」
「どうして?」
「それを壊せば──私も消える」
澪は静かに尋ねた。
「お父さん」
男が顔を上げる。
「この仕組みを作ったのは、誰?」
長い沈黙。そして男は、初めて苦しそうに笑った。
「……私じゃない」
風が吹いた。川の向こうの霧の中に、古い鳥居が現れる。
誰も見たことのない場所。その奥に、小さな灯りが見えた。
真白が青ざめる。
「まさか……」
冬香が尋ねる。
「何?」
真白は、震える声で言った。
「忘れもの預かり処の──『本店』だ」
澪は息を呑んだ。
「……風待さんの店じゃない」
真白が頷く。
「うん」
「じゃあ、誰の店?」
「僕たちが知らない人」
風待が尋ねる。
「誰だ?」
真白は答えなかった。ただ、鳥居の向こうを見ていた。
「行けば分かる」
一行は川を渡った。橋はなかった。それでも、足元には石が一つずつ現れた。まるで誰かが、渡るための道を作っているようだった。
最後に澪が渡り終える。その瞬間──川が消えた。振り返るが、そこにはもう家もない。
父親の姿もない。ただ、風待、冬香、真白、春樹、そして澪。五人だけが残っていた。
「父さんは?」
風待が尋ねる。
真白が首を振る。
「ここから先は、来られない」
「なぜ?」
「忘れられる側だから」
澪はその言葉に違和感を覚えた。
「父さんも?」
「うん」
「じゃあ、父さんは誰に忘れられたの?」
真白は答えなかった。代わりに本店の扉が開いた。
ギィ……。
中は、風待の店とよく似ていた。
カウンター。棚。無数の箱。そして、壁いっぱいの写真。しかし一つだけ違う。写真に写っているのは、人ではなかった。“忘れられた瞬間”だった。
妻を失った男。子供を失った母親。名前を忘れた老人。自分自身を忘れた少女。無数の人生。その一つ一つに、札がついている。
「すごい……」
冬香が呟く。
「これ、全部……」
「忘れもの」
真白が答える。
「この店は、ずっと前から人の記憶を預かってきた」
澪はカウンターを見る。そこに一冊の帳簿が置かれていた。表紙には、『店主名簿』とある。
風待が開く。最初のページ、そこには──一人の名前。
──風待しずく。
「……」
次のページ。
真白。
その次。
風待湊。
さらに。
風待冬香。
風待春樹。
そして──
風待──。
最後のページだけ、名前がない。白紙だった。
風待が眉をひそめる。
「このページは?」
真白が答える。
「澪のページだよ」
「でも、名前がない」
「だから、まだ店主になってない」
澪は驚いた。
「私が……店主に?」
「そう」
「何をしたらなれるの?」
真白は帳簿を閉じた。
「自分の名前を、自分で決める」
澪は黙った。
「それだけ?」
「それが一番難しいんだよ」
店の奥から、鈴の音がした。
チリン。
誰かがいると風待が身構える。
「誰だ?」
返事はない。
もう一度。
チリン。
今度は、奥から足音がした。
ゆっくり一歩ずつ。そして、姿を現したのは──白髪の女性だった。
澪は、その顔を見た瞬間に動けなくなった。
「……お母さん?」
母親とよく似ている。けれど、違う。もっと若い、もっと昔の顔。
女性は澪を見ると、涙を流した。
「やっと会えた」
「誰……?」
女性は微笑む。
「あなたを最初に、この店へ預けた人」
澪は息を呑んだ。
「私を……?」
「そう」
女性は帳簿を指差す。
「あなたの本当の名前を書いたのは──」
そして、澪を見つめた。
「私よ」
風待が尋ねる。
「あなたは誰なんです?」
女性は答えた。
「私は──」
その瞬間、店中の時計が一斉に止まった。
女性は静かに言った。
「あなたたちの、本当のお母さんよ」
冬香が青ざめた。
「……じゃあ、今までの母さんは?」
女性は悲しそうに笑った。
「彼女も、あなたたちの母親よ」
「え……?」
「でも──」
女性は澪を見る。
「あなたを産んだ母親は、私じゃない」
帳簿の最後の白紙にゆっくりと文字が浮かび上がった。
『澪の本当の名前──』
そこから先だけが、黒く塗り潰されていた。
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