忘れもの預かり処 第25話
「風待しずく」
その名前が部屋に響いた瞬間、澪の頭の中で、何かが弾けた。
──知っている。ずっと昔から。けれど、思い出せない。
「……しずく」
澪が呟く。
鏡の中の少女は頷いた。
「そう。私が本当のあなた」
「じゃあ、私は誰?」
「あなたは、私が忘れた記憶」
「……意味が分からない」
「そうだよね」
少女は悲しそうに笑った。
「私にも、最初は分からなかった」
風待が鏡に近づく。
「しずく」
少女が彼を見る。
「お兄ちゃん」
風待の顔が強張った。
その呼び方。それだけで、忘れていた記憶が一つ戻る。幼い風待が、小さな女の子の髪を結んでいる。
「痛くない?」
「うん」
「じゃあ、明日も僕が結んであげる」
「約束?」
「約束」
その少女が、しずくだった。
しかし──記憶はそこで途切れた。
「どうして僕は、君を忘れた?」
しずくは答えた。
「忘れたんじゃないよ」
「また、その言葉か」
「うん」
しずくは鏡越しに父親を見る。
「お父さんが、私を消したの」
父親の顔が歪んだ。
「しずく」
「私の名前を呼ばないで。あなたに呼ばれると、私はまた消えるから」
母親が泣きながら言う。
「しずく……ごめんなさい」
「お母さんは悪くないよ」
しずくは微笑む。
「私を川に流したのは、お父さんだから」
澪は息を呑んだ。
「川に……?」
「そう」
「でも私は、川から拾われたって──」
「それはあなたじゃない」
しずくは首を振る。
「私が川に流されたあと、お母さんは別の子を拾った」
澪の胸が締めつけられた。
「それが……私?」
「ううん」
しずくは答えた。
「あなたは、もっと後」
風待が尋ねる。
「じゃあ澪は、いつ来たんだ?」
しずくは黙った。そして、澪を見た。
「お兄ちゃんが私を忘れたあと、お兄ちゃんは、一人で帰ってきた」
その言葉に、風待の表情が変わる。
「一人……?」
「うん」
しずくは続けた。
「だから、お兄ちゃんの記憶の中には、私が必要だった」
「どういうこと?」
「お兄ちゃんは私を忘れたことで、自分も一部を失った。その空いた場所に、あなたが入ったの」
澪は言葉を失った。
自分は拾われた子ではなかった。誰かの代わりでもなかった。誰かが失った記憶から生まれた存在。
その可能性に、身体が震えた。
「じゃあ……私は、本当に人間なの?」
しずくは答えなかった。代わりに、鏡へ手を当てる。
澪も反射的に手を重ねた。
触れた瞬間、二人の手が重なった。
「……温かい」
澪が呟く。
「当たり前だよ」
しずくが笑った。
「私も、あなたも──同じだから」
その瞬間、鏡が割れた。
ガシャァン!
風待が叫ぶ。
「澪!」
破片が床に散る。しかし、澪には傷一つなかった。ただ、いつの間にか、右手首に赤い紐が巻かれていた。
「……これ」
しずくが言った。
「それが、私たちを繋いでる」
澪は紐を見つめる。そこに、小さな文字が浮かんだ。
『一人が忘れれば、一人が生きる』
真白が顔を上げる。
「そういうことか……」
風待が振り返る。
「何が?」
真白は青ざめていた。
「父さんが作ったんだ。忘れる仕組みを。一人を消せば、一人を生かせる」
そして真白は、澪を見る。
「だから僕も、名前を捨てた」
「真白……」
「しずくも同じ」
そのとき、家の外から、子供の笑い声が聞こえた。一人ではない。二人、三人、四人、とどんどん増えていく。
風待が窓の外を見る。そして絶句した。
家の前に──数え切れないほどの子供たちが立っていた。
全員が、赤い靴を履いている。
先頭の子供が顔を上げた。
「次は、誰を忘れる?」
しずくが小さく笑った。
「始まったね」
澪は尋ねた。
「何が?」
しずくは答えた。
「最後の忘却だよ」
その言葉を聞いた瞬間、風待は窓から離れた。
「しずく。あの子たちは何だ?」
「忘れられた子」
「何人いる?」
「分からない」
しずくは首を振る。
「忘れられた人の数だけいるから」
外を見る。
赤い靴を履いた子供たちが、家を取り囲んでいる。誰一人として声を上げない。ただ、こちらを見ている。
冬香が震える声で言った。
「この子たちも……誰かに忘れられたの?」
「うん」
「じゃあ、どうしてここに?」
「忘れた人を探してるの」
澪の背筋が冷たくなる。
「探して……どうするの?」
しずくが答えた。
「連れていく」
「どこへ?」
「川の向こう」
その瞬間、外の子供たちが一斉に顔を上げた。そして同じ言葉を口にした。
「忘れて」
声が重なり、家全体が震える。
「忘れて」
ガラスが揺れる。
「忘れて」
写真が壁から落ちる。
「忘れて!」
風待が澪の手を掴んだ。
「逃げるぞ!」
「どこへ?」
「店に戻る!」
「でも──」
「ここにいたら、全員消される!」
風待たちは走った。家を飛び出すが、子供たちは追ってこない。
ただ、赤い靴だけが一つ、二つと道に残されていく。
やがて──
「風待!」
店の前まで戻ったところで、冬香が叫んだ。
店がない。そこにあるはずの建物が消えていた。代わりに、川が流れている。
「……嘘」
澪が立ち尽くす。
「ここ、店だったよね?」
風待も答えられない。
川の向こうに、あの白黒の猫が座っていた。猫は一度だけ鳴く。そして、口に咥えていた鍵を落とした。
カラン。
鍵には札がついている。
『最後の忘れもの預かり処』
真白が呟く。
「場所が変わったんじゃない」
「じゃあ何?」
「僕たちのほうが、戻されたんだ」
川の向こうから声がする。
「兄ちゃん」
風待が顔を上げる。春樹だった。幼い姿のまま、川の向こうに立っている。
「春樹!」
風待が川へ入ろうとする。しかし春樹は首を振った。
「来ちゃだめ」
「どうして!」
「もうすぐ、父さんが来る」
「父さんはここにいる!」
全員が振り返った。
──いない。
さっきまで一緒にいた父親の姿が消えている。母親もいない。真白だけが、何かに気づいたように顔を上げた。
「……まずい」
「何が?」
「父さんは、こっちに来たんじゃない」
「じゃあ?」
真白は澪を見る。
「最初から──」
その声を遮るように、川の水面が大きく揺れた。
水の中から、男の手が伸びる。そして川岸に這い上がってきたのは──
──“父親だった。”
しかし、その姿はおかしい。顔も、服も、身体も、少しずつ輪郭が崩れている。まるで古い写真が、水に溶けているようだった。
「父さん……?」
風待が近づくと男は笑った。
「やっと、ここまで来たか」
「何をした?」
「何もしていない」
「じゃあ、なぜ店が消えた?」
「店が消えたんじゃない」
男は澪を見る。
「お前が、店を必要としなくなっただけだ」
澪は息を呑む。
「私が……?」
「そうだ」
男は指を差す。
「忘れものを預かっていたのは、お前だ。風待ではない」
風待が驚く。
「僕じゃない?」
「お前は、ただの鍵だった」
男は笑う。
「本当の店主は──」
その瞬間、真白が叫んだ。
「言うな!」
しかし遅かった。男は澪を見つめて、静かに言った。
「しずくだ」
澪の中で、何かが崩れた。同時に。川の向こうの子供たちが、全員笑った。
「やっと思い出した」
その声とともに──澪の中から、一つの記憶が抜け落ちた。
それは──
風待の顔だった。
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