忘れもの預かり処 第24話
幼い風待が、廊下の奥に立っていた。
年齢は十歳にも満たない。泥のついた服を着て、擦りむいた膝を見せていた。そして、右手に小さな鍵を握っている。
現在の風待は、一歩も動けなかった。
「……僕?」
少年は首を振る。
「違うよ」
「じゃあ……誰なんだ」
幼い風待が答えた。
「僕は、兄ちゃんが忘れたほう。兄ちゃんが生きるために、置いていったほう」
風待の顔が歪んだ。
「そんなの……」
「あるよ」
真白が静かに言った。
「僕たちはみんな、一人ずつ置いていかれたんだから」
冬香が首を振る。
「私は東京に行った」
「春樹は川の向こう」
「湊は……」
冬香の言葉が止まる。
「僕は名前を失った」
真白が続ける。
「澪は名前を変えた」
そして幼い風待を見る。
「でも、この子は──」
幼い風待が笑った。
「僕は、兄ちゃんそのものだよ」
現在の風待が息を呑む。
「じゃあ、僕は……」
「半分」
「半分?」
「父さんが怖かった夜」
少年は鍵を掲げる。
「兄ちゃんは、逃げた。そして、僕は残った」
その瞬間、風待の記憶が戻った。燃えるような痛みと父親の怒鳴り声に耐えながら黙っていた。
冬香が春樹を連れて走っていく。湊が泣いている。母親が澪を抱いている。そして、自分自身。幼い風待は、家の中に残っていた。
なぜなら──誰かが残らなければ、父親は追ってくる。
「僕が……囮になった?」
「そう」
少年が頷く。
「でも、父さんは僕を殺さなかった」
「どうして?」
「殺せなかったんだよ」
少年の目が暗くなる。
「だって僕は、父さん自身だったから」
部屋の空気が凍った。父親が低く笑う。
「ようやく思い出したか」
風待が振り返る。
「父さん……」
「お前は私の息子だ」
「それは知ってる」
「違う」
父親は言った。
「お前は、私の記憶から生まれた子だ」
誰も言葉を失った。
「お前の母親は、お前を産んだ」
父親は続ける。
「だが、お前が『風待』になったのは、私がそう呼んだからだ。本当のお前には、別の名前があった」
澪が震える。
「じゃあ……」
父親は澪を見る。
「お前も同じだ」
「私も?」
「お前は川から拾われた子ではない」
母親が叫ぶ。
「やめて!」
「この子は──」
父親が一歩近づく。
「私たちの家から、“一度も出ていない”」
澪の頭の中で、何かが崩れた。
川。母親。真白。自分。全部が逆だった。
真白が呟く。
「だから、父さんは僕たちを忘れさせたんだ」
風待が尋ねる。
「何のために?」
真白は答えなかった。代わりに、幼い風待が鍵を床に置いた。
カチャン。
鍵の下から、一枚の紙が現れる。そこには、幼い字でこう書かれていた。
『八人目を忘れたら、全部終わる』
澪は紙を見つめる。
「……八人目」
そして気づいた。さっきの少年が言った──まだ一人足りない。
「じゃあ……」
澪が顔を上げる。
「私たちが探している八人目は、誰?」
幼い風待が答えた。
「君だよ」
「……え?」
「澪じゃない」
少年は笑った。
「澪になる前の、君」
その瞬間、店のほうからガラスが割れる音がした。
全員が振り返る。遠く離れたはずの「忘れもの預かり処 風待」の店内に──一人の少女が立っていた。
少女は、澪と同じ顔をしている。そして鏡に向かって、静かに呟いた。
「私は、まだ忘れてない」
その少女が振り返る。
「だから──あなたたちを、全部忘れさせる」
鏡の中の少女は、そう言った。
澪と同じ顔で同じ声。けれど、目だけが違っていた。
冷たい。何もかもを知っている人間の目だった。
「……誰?」
澪が尋ねると少女は笑った。
「あなた」
「私?」
「澪になる前の、あなた」
その瞬間、鏡が揺れた。
水面のように波打ち、少女の姿が消える。代わりに映ったのは──あの日の家。雨の夜の中、八人の子供たち。
澪は息を呑んだ。
「……八人いる」
今度こそ、はっきり見えた。
風待。冬香。春樹。湊。妹。真白。そして澪。
最後の一人。その顔だけが、何度見ても分からない。
「誰なの?」
澪が近づく。鏡の中の八人目が、ゆっくり顔を上げた。
「私だよ」
澪は凍りついた。
その顔は──自分だった。けれど、今の自分ではない。もっと幼く、もっと怯えていて、そして、手首に赤い紐を巻いている。
「この子……」
冬香が呟いた。
「妹?」
「違う」
風待が答える。
「妹は、赤い靴を履いていた」
「じゃあ誰?」
「分からない」
真白が首を振る。
「僕にも分からない」
その瞬間、父親が笑った。
「当然だ」
全員が振り返る。
「その子は、お前たちの家族ではない」
澪の背筋が冷たくなる。
「じゃあ、誰なの?」
父親は答えた。
「私だ」
「……え?」
「正確には──」
父親は鏡の中の少女を見る。
「私が忘れた子だ」
風待が低く尋ねる。
「どういう意味?」
「私は昔、もう一人の子供を持っていた」
「母さんとの子?」
「違う」
父親は首を振った。
「川から拾った」
澪の心臓が強く鳴った。
「川……」
「その子には名前がなかった」
母親が震えながら言う。
「だから、私は名前をつけた」
「なんて名前?」
父親は答えない。
澪は鏡を見つめる。すると、鏡の中の少女が口を動かした。声は聞こえない。けれど、読めた。
──しずく。
「……しずく?」
父親の顔が強張った。
「誰にその名前を教えられた?」
「今、鏡の中の子が……」
父親が後ずさる。
「そんなはずはない」
「どうして?」
「しずくは──」
そこで父親の言葉が途切れた。
真白が静かに言う。
「死んだ?」
父親は答えない。代わりに、澪の足元へ何かが転がってきた。
古い鍵だった。それを風待が拾い上げる。
見覚えのある鍵。
「これ……店の鍵?」
「違う」
真白が言う。
「これは、あの部屋の鍵だよ」
「どの部屋?」
真白は家の奥を指差した。
廊下の突き当たり。今まで壁だった場所に、小さな扉が現れている。扉には文字が刻まれていた。
『しずくの部屋』
澪は鍵を握った。
胸の奥で、知らないはずの記憶が疼く。
「……私、この部屋を知ってる」
風待が止める。
「入らないほうがいい」
「どうして?」
「そこにあるものを見たら──」
風待は苦しそうに目を伏せた。
「僕は、君を二度と澪と呼べなくなる」
その言葉に、澪は鍵を差し込んだ。
カチッ。
扉が開く。中には、小さな机と古いベッド、そして壁いっぱいに貼られた写真。
その中央に、一枚だけ。八人全員が写っている。
写真の裏には──『しずくは、澪の中にいる』
澪の手から、鍵が落ちた。
「……私の中に?」
すると背後から、少女の声がした。
「違うよ」
澪が振り返る。
鏡の中の少女が、そこに立っていた。
「澪が、私の中にいるの」
そして少女は、初めて名前を名乗った。
「私が本当の──」
そこで、照明が消えた。真っ暗な部屋の中、少女の声だけが響いた。
「風待しずくだよ」
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




