忘れもの預かり処 第23話
「お兄ちゃん、今度こそ呼んで」
紙に書かれた文字を見た瞬間、風待の顔から、血の気が引いた。
「……この字」
冬香も覗き込む。
「妹の字?」
「うん」
風待は赤い靴を拾い上げた。
それは小さな靴だった。泥もついていない。雨に濡れているはずなのに、妙にきれいだった。
「ずっと、これを探してた」
風待が呟く。
「何を?」
遥が尋ねる。
「名前を呼ぶために必要だったものを」
「名前を?」
「僕は、名前を忘れたんじゃない」
風待は靴を握りしめた。
「呼ぶのが怖くて、忘れたことにしたんだ」
父親が低い声で言った。
「余計なことを思い出すな」
風待は振り返る。
「父さんは、僕から何を奪った?」
男は答えない。
「湊の名前も。妹の名前も。そして、春樹が川の向こうにいる理由も」
男の表情が変わった。
風待は続ける。
「全部、僕たちに忘れさせたんだ」
「違う」
初めて、男が否定した。
「忘れさせたんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「守ったんだ」
遥は息を呑んだ。
父親は写真を見る。
「名前を持っている者は、探される」
「誰に?」
「向こう側にいる者に」
その言葉を聞いた瞬間、店の鏡が真っ黒になった。
そこに映ったのは店内ではなく、川だった。
夜の川。向こう岸に、子供たちが立っている。風待。冬香。春樹。湊。そして、赤い靴の少女。さらに──もう一人。
遥は目を見開いた。
「……私?」
そこにいた少女は、遥と同じ顔をしていた。
しかし、その隣に立っていた少年を見た瞬間、遥は気づいた。
「真白……」
少年は幼い真白だった。彼は少女の手を握っている。
『この子を連れていって』
鏡の中の真白が言った。
『僕の名前を、この子にあげる』
遥の背後で真白が呟く。
「そうだった」
「何が?」
「僕は、死んだんじゃない」
真白は自分の胸に手を当てた。
「この子を生かすために、僕の名前を捨てたんだ」
母親が泣きそうな顔で言う。
「真白……」
「母さん」
真白が振り返る。
「僕は、約束を守ったよ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
真白は微笑んだ。
「でも、一つだけ間違えた」
「何を?」
真白の視線が父親へ向く。
「僕は、自分の名前をあげれば、この子を守れると思ってた」
父親が黙っている。
「でも違った」
真白は遥を見る。
「名前を失った僕は、誰にも思い出してもらえなくなった。だから、この店ができた」
風待が息を呑む。
「忘れもの預かり処……」
「そう」
真白が笑う。
「兄ちゃんは、僕を忘れた罪を償うためじゃない。僕を、いつか思い出すために、この店を作ったんだよ」
風待の目から涙が落ちた。
「僕は……ずっと、お前を探してたのか」
「うん」
「なのに、見つけられなかった」
「違うよ」
真白は首を振る。
「兄ちゃんは、最初から見つけてた」
そして、遥を指差す。
「僕はずっと──」
「“君の中にいたんだから”」
遥の胸が大きく鳴った。その瞬間、頭の中にたった一つの名前が浮かんだ。
誰かが、幼い声で呼んでいる。
「────」
聞き取れない。もう一度。
「────」
今度は、はっきりした。
それは、風待が幼い頃につけた名前だった。
遥は唇を震わせる。
「……私の名前」
風待が顔を上げた。
「思い出した?」
遥は涙を流しながら頷いた。
「うん」
そして──初めて、自分自身の名前を口にした。
「私は──“澪”」
鏡の中で、赤い靴の少女が笑った。その瞬間、川の向こうから声が響く。
『やっと呼んでくれたね、お兄ちゃん』
風待が振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、店の奥で、今まで存在しなかった新しい扉が、静かに開いていた。
扉の向こうには、古い家があった。雨は降っていない。けれど、空は暗い。まるで時間そのものが、そこで止まっているようだった。
「……あの家」
冬香が呟く。
「知ってる」
風待も頷いた。
「僕たちが暮らしていた家だ」
遥──いや、澪は扉の前に立った。
足が動かなかった。懐かしい、だが怖い。そして、帰りたかった。
そんな相反する感情が、胸の中で混ざっている。
「行こう」
真白が言った。
「七人目が待ってる」
風待が真白を見る。
「お前も来るのか?」
「うん」
「でも、お前は……」
「名前が死んだだけだから」
真白は笑った。
「まだ、ここにいるよ」
七人は──いや。
正確には六人と一人の記憶は、扉をくぐった。
家の中は、驚くほど綺麗だった。古い時計に小さな食卓。壁に並んだ写真。そして、七つの椅子。
澪は立ち止まった。
「……七つ?」
風待が椅子を見る。
「僕たちは六人だったはずだ」
「違う」
真白が答えた。
「最初から七人だった」
冬香が振り返る。
「そんな……」
「でも、七人目は家族じゃない」
真白が指を差した。
一番奥の椅子。そこには名前が彫られていた。けれど、削られている。何度も、何度も、その名前を消そうとした跡だけが残っていた。
澪が近づき指で触れる。
すると──頭の中に声が響いた。
『澪』
小さな男の子の声。
『僕のこと、覚えてる?』
「……誰?」
『ずっと一緒にいたよ』
「あなたは誰?」
返事はなかった。代わりに、床に一枚の写真が落ちた。
それを風待が拾う。写真には七人の子供。しかし、顔が一つだけ黒く塗り潰されていた。
冬香が震える。
「これ……」
「父さんだ」
風待が言った。
「何?」
「この写真を撮ったのは、父さんだ」
写真の裏には日付があった。
**1988年6月12日。**
母親が息を呑む。
「……あの日」
「そう」
風待は写真を裏返す。そこには短い文章が書かれていた。
『この子だけは、川へ返さなければならない』
澪の背筋が凍った。
「川へ……返す?」
真白の顔から笑みが消える。
「だから父さんは、僕たちに忘れさせたんだ」
「何を?」
「七人目が、人間じゃないことを」
その瞬間、二階から足音がした。
とん。
とん。
とん。
誰かが階段を降りてくる音。冬香が後ずさる。
春樹の姿はない。湊もいない。けれど──一人の少年が現れた。
年齢は十歳ほど。濡れた髪に裸足。白いシャツを着て、そして、左手には赤い靴。
澪は、その顔を見た瞬間に息を止めた。
「……私」
少年は澪と同じ目をしていた。
「違うよ」
少年が言った。
「僕は、君じゃない」
「じゃあ……誰?」
少年は微笑んだ。
「君が川から拾われた日」
「……」
「僕は、君を川へ返したんだ」
母親が叫ぶ。
「やめて!」
少年は母親を見る。
「どうして?」
「もう終わったことなの」
「終わってないよ」
少年は澪に近づく。
そして、赤い靴を差し出した。
「これを返しに来た」
澪は震える手で受け取った。
その瞬間──すべての記憶が繋がった。
雨。川。母親。真白。風待。そして、父親。あの日。川辺にいたのは、六人ではなかった。七人でもなかった。
“八人だった。”
澪は息を呑む。
「……八人?」
少年が笑う。
「そう」
そして、澪の耳元で囁いた。
「だから、まだ一人足りないんだよ」
その言葉と同時に、家の奥から、もう一人の子供の声が聞こえた。
「──お兄ちゃん」
風待が振り返る。その顔が青ざめた。
「……春樹」
しかし、声を出したのは春樹ではなかった。
暗い廊下の奥から現れたのは──幼い風待自身だった。
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