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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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忘れもの預かり処 第22話

 真っ白だった。

 雨の音も、風の音も、誰かの声も聞こえない。

 ただ一つだけ、小さな手の感触があった。

 誰かが、遥の手を握っている。

 そして幼い声が聞こえた。


「大丈夫だよ。怖くないから」


 遥は目を開けようとした。けれど、開かない。


「ねえ、お兄ちゃん」


 その呼び方に、胸が痛んだ。


「私の名前、呼んで」


 ──名前。


 それを聞いた瞬間、頭の奥に映像が流れ込んできた。

 古い家。雨。割れた窓。そして、六人の子供。風待。冬香。春樹。湊。赤い靴を履いた妹。そして──遥。


「違う」


 遥は呟いた。


「私は……六人目じゃない」


 幼い風待が振り返った。

 その腕には、小さな女の子が抱かれている。


「この子を連れて逃げる」

「でも兄ちゃん。父さんに見つかったら……」

「大丈夫」


 風待は笑っていた。

 今の彼からは想像できないほど、優しい笑顔だった。


「僕が守る」


 その言葉を、ずっと昔から遥は知っていた。


「……私を?」


 風待が答える。


「うん」


「どうして?」


「だって──」


 映像が途切れた。次に見えたのは、川だった。

 雨で増水した川。向こう岸に、母親がいる。その腕には赤い靴の少女。母親は泣いていた。


「ごめんね」


 少女を抱きしめる。


「あなたを連れていくことはできない」


「お母さん?」


「でも、必ず迎えに来る」


 その背後に、男が立っていた。

 あの男だ。本当の父親。


「母さん!」


 風待の声がして男が振り返る。


「逃げろ」


「嫌だ!」


「逃げるんだ!」


 そして──少女の手から、赤い靴が一つ落ちた。靴が川へ流されていく。

 遥は叫んだ。


「待って!」


 ようやく目が開いた。


「──っ!」


 風待が目の前にいた。


「遥!」


 その顔を見た瞬間、遥は泣いていた。

 理由は分からない。ただ、懐かしかった。


「……お兄ちゃん」


 風待の表情が固まった。冬香も、母親も、真白も、誰も動かない。


「今……なんて?」


 風待が震える声で聞いた。

 遥は自分の胸に手を当てる。そこに、ずっと空いていた場所があった。

 名前を失った場所。記憶を失った場所。そして──家族を失った場所。


「私……思い出した」


「何を?」


「私の名前」


 風待が息を呑む。

 遥は涙を拭った。


「私は──」


 その瞬間、店の奥で何かが落ちた。


 カタン。


 全員が振り返ると、最後の箱。ずっと開かなかった、あの箱だった。

 蓋が、少しだけ開いている。中から一枚の写真が滑り落ちた。


 風待が拾うと、そこには六人の子供が写っていた。

 けれど、今までの写真とは違う。一番端にいた少女の顔が、はっきり写っている。

 その裏には、一行だけ。


『この子の名前を、風待は忘れてはいけない』


 風待の手が震えた。


「……そうだった」


 彼は写真を見つめたまま呟く。


「僕は、この子の名前を──」


 その瞬間、真白が言った。


「違うよ、兄ちゃん」


 風待が顔を上げる。


 真白は、悲しそうに笑っていた。


「忘れたんじゃない」


「……」


「“忘れさせられたんだよ”」


 そして写真の裏に、もう一行。

 今まで誰にも見えていなかった文字が浮かび上がった。


『父親が、名前を消した』


 雨が止んだ。

 それなのに、店の中には雨音が残っていた。


 ぽつ。

 ぽつ。


 天井からではない。写真からだった。一滴。また一滴。写真に写った少女の頬を、透明な雫が流れている。

 遥は写真を見つめた。


「……泣いてる」


 風待が首を振る。


「写真の中の子は、泣いてない」


「でも……」


「それは記憶だ」


 真白が言った。


「写真に残ってるのは、姿だけじゃない。忘れられた人の記憶も残るんだ」


 冬香が写真を奪うように手に取った。


「この子……」


 指が震えている。


「知ってる」


「冬香?」


「知ってるのに……名前だけが出てこない」


 冬香は目を閉じた。


「小さい頃、いつも私の後ろをついてきた。寝るときも、私の布団に入ってきた」


「妹……」


「そう。妹」


 冬香は呟く。


「でも、どうしても名前が思い出せない」


 そのとき、店の奥から声がした。


「──名前は、最初からなかったんだよ」


 全員が振り返った。

 父親だった。いつの間にか、店の中に入っている。風待が立ちはだかる。


「出ていけ」


「まだ何も話していない」


「聞きたくない」


「お前は、ずっとそれだったな」


 男は笑った。


「聞きたくない。思い出したくない。忘れていたい」


 風待の顔が強張る。


「父さん……」


「その呼び方も嫌いだ」


 男は写真を見る。


「この子には、名前をつけなかった」


 遥は息を呑んだ。


「どうして?」


 男は遥を見る。


「名前があれば、記憶に残る。記憶に残れば、逃げられない」


 冬香が叫んだ。


「だから消したの?」


 男は答えない。

 代わりに、ポケットから古い紙を取り出した。

 そこには六人分の名前が書かれている。風待。冬香。春樹。湊。そして──五人目のところだけ、黒く塗りつぶされていた。

 最後の一人には『あかり』と書かれている。


 遥ハッとした顔を見せた。


「……あかり」


 母親が目を伏せた。


「そう」


「私が……あかり?」


「違う」


 真白が言った。


「それも違う」


 遥が振り返る。


「じゃあ、私は誰なの?」


 真白は悲しそうに笑った。


「君は、あかりじゃない」


「じゃあ──」


「でも、君は一度だけ、あかりだった」


 意味が分からない。

 その瞬間、風待が紙を見つめて呟いた。


「……この字」


「知ってる?」


「僕の字だ」


 全員が黙った。風待は震える手で紙を裏返す。そこには、幼い字で書かれていた。


『妹の名前は、僕が決める』


 そして、その下にもう一つの名前があった。何度も消された跡がある。けれど、完全には消えていなかった。

 風待はその文字を見た瞬間──泣いた。


「……ごめん」


 遥の胸が締めつけられる。


「お兄ちゃん?」


 風待は答えない。ただ、写真の少女を見つめている。


「僕がつけた名前だ」


「……なんて名前?」


 風待が口を開く。

 その瞬間、父親が怒鳴った。


「言うな!」


 だが、風待は初めて父親に背を向けた。

 そして遥を見た。


「君の名前は──」


 その一言を言う前に、店の扉がひとりでに開いた。

 外には誰もいない。ただ、赤い靴が一足が濡れた石畳の上に置かれていた。


 そして靴の横には、小さな紙。

 そこには──『お兄ちゃん、今度こそ呼んで』と書かれていた。

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