忘れもの預かり処 第21話
「真白を殺したのは──風待」
店内から、音が消えた。
「……僕が?」
風待は自分を指差した。
母親は頷く。
「そう」
「違う」
冬香がすぐに言った。
「風待は、あの夜ずっと私と一緒だった」
「そうね」
母親は答えた。
「だから、あなたには殺せない」
「じゃあ、どうして……」
「風待は、真白を殺してはいない」
母親の視線が、あかりへ向く。
「でも──真白を死なせたのは、風待なの」
意味が分からなかった。
「殺してないのに、死なせた?」
あかりが尋ねる。
母親は静かに頷いた。
「風待は、真白を守ろうとした」
「……守った?」
「ええ」
「じゃあ、どうして?」
母親は一枚の写真を取り出した。
古い、色褪せた写真。そこには、幼い風待と真白が写っている。
二人は川辺に座っていた。風待の手には、小さな鍵。真白の手には──赤いリボン。
「この写真を撮ったのは、私」
母親が言った。
「その翌日、真白は死んだ」
あかりの胸が締めつけられる。
「どうして?」
「真白は、あることを知ってしまったから」
「何を?」
母親は答えない。代わりに、風待を見る。
「あなたは覚えていないのね」
「……何を?」
「真白が、あなたに何を頼んだのか」
風待は眉を寄せる。
「僕は……」
その瞬間、風待の顔が歪んだ。頭を押さえる。
「……痛い」
「風待さん!」
遥が駆け寄る。
「触らないで!」
風待が叫んだ。
「今、何か……」
彼の目に、過去の景色が映っていた。
雨の夜の川。真白。そして幼い自分。
『兄ちゃん』
『何?』
『僕を忘れて』
『嫌だ』
『お願い』
『どうして?』
真白は泣いていた。
『僕を覚えていたら、兄ちゃんも死ぬ』
風待は首を振る。
『そんなの関係ない』
『あるよ』
真白は小さな鍵を渡した。
『この鍵で、僕を閉じて』
『何を?』
『僕の記憶』
──そこで映像が途切れた。
風待が膝をつく。
「……そうだ」
「何を思い出したの?」
遥が聞くと風待は震える声で答えた。
「真白は……自分から消えた」
母親が目を閉じた。
「そう」
「僕に、自分を忘れさせた」
「ええ」
「でも……」
風待が顔を上げる。
「どうして真白は死んだ?」
母親は答えなかった。その代わり、店の入口に視線を向ける。
白と黒の猫が、そこに座っていた。猫の口には、一枚の紙。それを遥が拾う。
紙には、真白の字でこう書かれていた。
『兄ちゃんへ。僕は死んでない。』
「……え?」
風待が紙を見る。
『死んだのは、僕じゃない。僕の名前だ』
遥は息を呑んだ。
「名前が……死んだ?」
その意味を理解できない。
だが、母親だけは分かっているようだった。
「そういうこと」
「お母さん?」
母親は遥を見る。
「真白は、自分の名前を捨てたの」
「どうして?」
「誰かに、その名前を使わせるために」
その瞬間、店の奥から、聞き覚えのある声がした。
「──僕の名前を?」
全員が振り返る。そこに立っていたのは、二十二年前と変わらない姿の少年──真白だった。
「やっと思い出してくれたね」
風待が立ち上がる。
「真白……」
少年は微笑んだ。
「兄ちゃん」
「お前は……誰に名前を渡した?」
真白の笑顔が消えた。
そして──ゆっくりと遥を指差した。
「この子に」
店の空気が凍った。
「遥ちゃんは、僕の名前を使って生きてきたんだよ」
「……私が?」
「うん」
真白は悲しそうに笑った。
「だから、君の本当の名前は──」
そこで言葉を止める。
「まだ、思い出しちゃ駄目なんだ」
母親が叫んだ。
「真白!」
少年は振り返る。
「母さん。もうやめて、無理だよ」
真白の身体が透け始める。
「だって、あの人が来る」
「誰?」
遥が尋ねる。
真白は店の外を見た。雨の向こうに、人影が立っていた。顔は見えない。ただ、黒い傘だけが見える。
真白は、その姿を見た瞬間に笑わなくなった。
「……来た」
風待が扉の前に立つ。
「誰だ」
「お父さんだよ」
冬香が首を振った。
「違う。父さんは死んだ」
「そうだね」
真白は答えた。
「僕たちが知ってる父さんはね」
その言葉に、遥は違和感を覚えた。
「僕たちが知ってる……?」
母親が静かに言った。
「あなたたちには、父親が二人いたの」
「二人?」
「一人は、あなたたちを育てた父親」
「じゃあ、もう一人は?」
母親は答えなかった。
雨の中の男が、一歩近づく。その顔が見えた途端、遥は息を呑んだ。
「……風待さん?」
男の顔は、風待と同じだった。いや、正確には──若い頃の風待と、よく似ていた。
「兄ちゃん……?」
湊が呟く。
風待自身も動けない。
「僕……?」
男は笑った。
「久しぶりだな」
風待が震える。
「お前は……誰だ」
男は答えない。代わりに、母親へ視線を向ける。
「まだ、この子を守っているのか」
「ええ」
「無駄だ」
「そうかもしれない」
母親は遥の前に立った。
「でも、この子はもう自分で決められる」
男が笑う。
「決める?」
「そう」
「なら聞いてみろ」
男は遥を見る。
「お前は誰だ?」
遥は答えられなかった。
自分の名前さえ、分からない。遥なのかあかりなのか。それとも、真白から与えられた別の名前なのか。
「……私は」
声が震える。そのとき、風待が言った。
「君は、君だよ」
遥が振り返る。
「名前なんて、後からでもいい」
「でも……」
「僕は、君が誰だったとしても」
風待はまっすぐ遥を見る。
「君を忘れない」
その言葉を聞いた瞬間、遥の胸の奥で『忘れても、僕が覚えてる』幼い風待の声。『私を忘れないで』真白の声。
──『あなたを、私たちの妹だと思って』
冬香の声。そして最後に母親の声。
──『あなたは、私の娘じゃない』
全部が重なった。遥は目を閉じた。
「……分かった」
「遥?」
「私、思い出した」
母親が息を呑む。
「何を?」
遥はゆっくり顔を上げる。
「私は、誰かに名前をもらったんじゃない」
「……」
「私が、名前を捨てたんだ」
真白が笑った。
「そう」
遥は男を見る。
「私の本当の名前は──」
その瞬間、男の顔から笑みが消えた。
「言うな」
初めて、男が声を荒らげた。
「その名前を言えば、お前はすべて思い出す」
「それが怖いの?」
「違う」
男が一歩踏み出す。
「俺が困る」
風待が遥の前に立つ。
「何を隠している?」
男は風待を見る。
「お前は何も知らない」
「なら教えろ」
「教えられない」
「なぜ?」
男は静かに答えた。
「お前自身が──俺の息子だからだ」
風待が固まった。冬香が息を呑む。湊も、動かない。そして遥だけが気づいた。男の目、その瞳は──風待と同じだった。
「……お父さん」
遥が呟くと、男がこちらを見る。
「どうして私を知ってるの?」
男はしばらく黙っていた。やがて、答えた。
「お前を、この家に連れてきたのは──」
男の視線が真白へ移る。
「俺だ」
真白が俯いた。
「そして、真白を殺したのも──」
男の声が止まり、真白が笑った。
「違うよ」
「……」
「僕は自分で死んだんだ」
「真白……」
「兄ちゃんを守るために」
真白の姿が、再び薄くなる。
「だから最後に一つだけ」
真白は遥を見る。
「君の名前は──」
男が叫ぶ。
「言うな!」
しかし。もう遅かった。真白の声が、店いっぱいに響いた。
「“君は──僕の妹だよ”」
遥の世界が、再び真っ白になった。
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