忘れもの預かり処 第20話
雨の音がしていた。けれど、雨は降っていない。
あかりは床に落ちた鍵を見つめていた。
「風待さん……」
返事がない。風待は、少年をじっと見ていた。その顔には、これまで一度も見せたことのない表情が浮かんでいる。
──恐怖。
「……どうして」
風待が呟く。
「どうして君が、ここにいる」
少年は笑った。
「ずっといたよ」
「違う」
「兄ちゃんは、僕を忘れた」
「違う!」
風待が声を荒らげる。
少年は悲しそうに首を傾げた。
「じゃあ、どうして名前を呼べないの?」
風待は答えられなかった。
冬香が少年を見る。
「あなた……誰なの?」
少年は冬香を見た。
「冬香姉ちゃんも忘れたんだね」
「……私のことを知ってる?」
「もちろん」
少年は指を一本立てた。
「風待兄ちゃん」
二本目。
「冬香姉ちゃん」
三本目。
「春樹兄ちゃん」
四本目。
「湊兄ちゃん」
そして最後に、あかりを見る。
「妹ちゃん」
「……五人?」
あかりが呟く。
「でも、六人目は?」
少年は笑った。
「僕だよ」
風待が首を振る。
「違う」
「まだ分からない?」
「僕たちは五人だった」
「違うよ」
少年は静かに言った。
「“僕たちは、最初から六人だった”」
その瞬間。最終保管庫の壁に、古い写真が次々と浮かび上がった。
六人。七人。八人。写真を重ねるたび、子供の数が増えていく。
「あれ……?」
あかりは目を凝らした。
写真の端にいる子供。その顔は、どの写真でも違っていた。けれど、服だけは同じ。
白いシャツに黒い半ズボン。
「同じ子?」
少年が頷く。
「そう。僕は、写真の中にしかいない」
「どういう意味?」
「忘れられるたびに、誰かの記憶になるんだ」
少年は自分の胸を指した。
「僕は、一人じゃない」
あかりは理解できなかった。
すると少年は、あかりの前に歩いてきた。
「君だけが知ってるよ」
「私が?」
「うん」
「何を?」
少年が耳元で囁く。
「君は、僕を川から拾った」
──その瞬間、あかりの記憶が弾けた。
川。雨。冷たい水。そして、幼い自分の手。誰かの手を握っている。
「……違う」
あかりは頭を抱えた。
「私が拾ったんじゃない」
「そうだよ」
「あなたが……私を拾った」
少年が笑った。
「やっと思い出した」
あかりの目の前に、あの日の光景が蘇る。
川辺に倒れていた小さな女の子。それが自分。その隣にいた少年。少年は、自分を抱き上げて言った。
『大丈夫。僕が名前をあげる』
「……名前」
あかりは呟いた。
少年が頷く。
「君の本当の名前は、僕がつけた」
「じゃあ……あかりは?」
「それは、お母さんがつけた名前」
「本当の名前じゃない?」
「違う」
少年は笑った。
「お母さんが忘れた名前」
「……じゃあ、私の本当の名前は?」
少年は答えようとした。
しかし──その瞬間、風待が少年の前に立った。
「言うな」
「兄ちゃん?」
「その名前を言ったら、全部終わる」
少年は笑った。
「ううん」
首を振る。
「始まるんだよ」
そして少年は、あかりを見る。
「君が本当の名前を思い出したら──」
少年の姿が、少しずつ薄くなっていく。
「僕は、ようやく死ねる」
「……死ぬ?」
あかりが手を伸ばす。
「待って!」
少年は笑った。
「だから、早く思い出して」
そして最後に──あかりだけに聞こえる声で、本当の名前を告げた。
「────」
その瞬間、風待ちの店そのものが、大きく揺れた。
──名前を聞いた。
なのに、あかりにはその名前が思い出せなかった。
少年の唇は確かに動いた。音も聞こえた。けれど、その瞬間だけ、世界から一つの言葉を切り取られたように、名前だけが消えていた。
「……今、何て言ったの?」
あかりが尋ねる。
少年は笑った。
「聞こえたでしょう?」
「聞こえた。でも、覚えてない」
「それでいいんだよ」
「よくない!」
あかりは少年の腕を掴もうとした。けれど、指は空気を掴んだ。
少年の身体が透けている。
「待って!」
「大丈夫」
少年は笑う。
「僕はずっと、ここにいたから」
「あなたは誰なの?」
「もう分かってるでしょう?」
あかりは首を振る。
「分からない」
少年は少しだけ寂しそうな顔をした。
「じゃあ、最後に一つだけ教える」
少年は風待を見る。
「兄ちゃんは、僕を殺してない」
風待の顔が強張った。
「……何を言ってる」
「僕は死んでない」
「じゃあ、どうして──」
「死んだことになっただけ」
風待は息を呑む。
少年は続けた。
「みんなが忘れたから」
「忘れたから……?」
「うん」
少年の姿がさらに薄くなる。
「誰か一人を忘れると、その人は世界から消える」
冬香が震える声で言った。
「そんな……」
「でも、完全には消えない」
少年は店の棚を指差した。
そこには無数の「忘れもの」が並んでいる。
「誰かが覚えている限り、その人はここに残る」
風待が呟く。
「だから、この店に……」
「そう」
少年が笑った。
「兄ちゃんが店を作ったんだよ」
風待の目が見開かれる。
「僕を忘れないために」
「……僕が?」
「うん」
「僕は、何も覚えていない」
「それでもいい」
少年は優しく言った。
「忘れた人を預かる場所を作ったでしょう?」
風待は答えられなかった。
遥はそんな風待の横顔を見ていた。
この店が、どうして「忘れもの預かり処」なのか。今、初めて分かった気がした。
忘れたものを取り戻すためではない。忘れてしまった人を、消さないための場所なのだ。
「じゃあ……」
遥が少年を見る。
「私も、あなたを忘れていた?」
「うん」
「どうして?」
「君が忘れたんじゃない」
少年は答えた。
「僕が、君に忘れさせた」
「なぜ?」
少年は少しだけ笑った。
「君が僕のことを覚えていたら、あの日──君は戻ってきてしまうから」
「戻ってきたら?」
少年は答えなかった。
代わりに、最終保管庫の一番奥を指差した。そこに、一つだけ新しい箱があった。
札には『六人目』と書かれている。
「あの中に、答えがある」
「開けていい?」
「うん」
遥が箱へ近づき、鍵を差し込む。
カチリ。
蓋が開いた。
中に入っていたのは──古い新聞の切り抜きだった。
『一九八八年六月十二日、河川敷にて少女一名保護』
遥の息が止まる。
写真を見ると、そこには、幼い自分。そして──その隣で倒れている少年。
新聞の見出しには。
──『身元不明の少年、死亡』
と書かれていた。
「あ……」
遥の手が震える。
「この子……」
少年は微笑んだ。
「そう」
「あなた……」
「僕は、あの日に死んだ」
風待が顔を上げる。
「……じゃあ、今までここにいたのは」
少年は答える。
「みんなの忘れもの」
そして、少年は遥を見る。
「でも、あかり」
「……なに?」
「君だけは、僕を覚えていた」
遥の目から涙が落ちた。
「だから君は、僕を探して、この店に帰ってきたんだよ」
少年の姿が消えていく。
「待って!」
「大丈夫」
「あなたの名前……!」
少年は最後に笑った。
「もう一度だけ、思い出して」
消える寸前、少年の声が響いた。
「僕の名前は──」
そして、店の時計が鳴った。
午前零時。
音が止んだとき。少年の姿は、完全に消えていた。床には一枚の写真だけが残されている。
六人の子供たち。その裏に、新しい文字が浮かんでいた。
『六人目──真白』
遥は、その名前を見た。
そして、ようやく思い出した。
「……真白」
風待が振り向く。
「知ってる名前?」
遥は頷いた。
「うん」
涙を拭う。
「私が、一番最初に忘れた名前」
その瞬間、店の奥で、誰かが静かに笑った。
少年ではない。もっと大人の声だった。
「──違うよ」
「真白を忘れたのは、君じゃない」
母親が、真っ青な顔で立っていた。
「真白を殺したのは──」
彼女は震える指で、風待を指差した。
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