忘れもの預かり処 第19話
「久しぶりね、あかり」
その女性は、微笑んでいた。
遥──いや、あかりは、一歩も動けなかった。
「……お母さん」
声を出せたのは、それだけだった。
愛花梨の言葉に女性は頷く。
「大きくなったわね」
その言葉が、あまりにも普通だった。
二十二年ぶりに会った母親が言うには、あまりにも普通すぎた。
「どうして……」
あかりの声が震える。
「どうして生きてるの?」
「死んでいないもの」
「でも……私、ずっと……」
「そうね」
母親は少し寂しそうに笑った。
「あなたには、そう思ってもらう必要があった」
風待が前へ出た。
「あなたは、あの夜に死んだことになった」
「ええ」
「なぜ?」
母親は答える前に、店内を見渡した。
棚に並ぶ“忘れもの”。写真。手紙。鍵。そして──湊。
「まだ、そこにいるのね」
母親が湊を見る。そして、少年は笑った。
「うん。母さん」
冬香が息を呑む。
「湊……あなた、母さんと会っていたの?」
「ううん」
湊は首を振る。
「会ったのは、今日が初めて」
母親は湊の前にしゃがみ込んだ。
「ごめんね。あなたを残してしまったこと」
湊は少し考えた。
「それは、違うよ」
「……?」
「母さんは僕を残したんじゃない」
湊は母親の手を取った。
「僕が残ったんだ」
母親の目から涙が落ちた。
その光景を見て、あかりは胸が苦しくなった。
「お母さん」
「なに?」
「私は……どうして死んだことになったの?」
母親は立ち上がった。
「あなたを守るため」
「誰から?」
母親は答えなかった。代わりに、風待を見る。
「あなたが一番よく知っているでしょう」
風待は目を伏せた。
「……父さん」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
冬香が青ざめる。
「お父さん……生きてるの?」
母親は首を横に振った。
「いいえ」
「じゃあ、どうして……」
「死んだのは、あの人だけじゃない」
母親は言った。
「家族としての私たちも、あの日に死んだの」
あかりは理解できなかった。
「だったら、どうして今まで……」
「あなたを探していた」
「私を?」
「ずっと」
母親はあかりに近づく。
「でも、あなたが見つかってはいけなかった」
「どうして?」
「あなたが見つかれば──」
母親は言葉を止めた。
その視線が、あかりの手元に向く。そこには、古い鍵。
「……それを持っているのね」
「うん」
母親の顔から笑みが消えた。
「風待」
「分かってる」
「もう、時間がない」
「何の?」
あかりが尋ねるが、母親は答えず店の奥を指差した。
そこにある壁。さっきまで何もなかった場所に、もう一枚の扉が浮かび上がっていた。
扉には札が掛かっている。
『忘れもの預かり処 最終保管庫』
あかりは息を呑んだ。
「……最終保管庫?」
母親が頷く。
「そこに、あなたが忘れた最後の記憶がある」
「私の?」
「いいえ」
母親は静かに言った。
「“あなたが、私から預かった記憶よ”」
そして──母親は、あかりの耳元で囁いた。
「思い出してはいけない」
その言葉とは裏腹に、背後の扉が、ひとりでに開いた。
扉の向こうには、部屋があった。広さは、六畳ほどで、窓はない。壁一面に、古い木箱が並んでいる。
「これが……最終保管庫?」
あかりが呟くと母親は頷いた。
「ここには、普通の忘れものは置かれていない」
「じゃあ、何が?」
「忘れてしまったら、生きていけないもの」
母親の声が震えていた。
風待が先に部屋へ入る。すると、一番手前の箱に、札がついていた。
『風待』
その隣。
『冬香』
さらに。
『春樹』
『湊』
そして──
『妹』
あかりは息を止めた。
五つの箱。
「私のは?」
母親は答えなかった。
あかりが部屋の奥を見る。そこには、一つだけ大きな箱があった。札には何も書かれていない。
「……あれ?」
「あかり」
母親が止める。
「触らないで」
「どうして?」
「あなたが壊れてしまうから」
「もう、何が起きてもいい」
あかりは箱の前へ歩いた。
「私はずっと、自分が何者なのか分からなかった。風待さんに会って、少しずつ分かったと思った。でも、また分からなくなった」
あかりが何を言っても、母親は黙っている。
「だから知りたい」
あかりは箱に手を置いた。
「私が忘れたものを」
カチリ。
鍵が反応した。
箱の蓋が開く。中に入っていたのは──一枚の古い紙だった。
『あかりへ』
そう書かれていた紙をあかりは開いた。そこには、母親の字で書かれていた。
『あなたには、ひとつだけ嘘をつきました。
あなたは、私の娘ではありません。』
あかりの手が止まった。
「……え?」
冬香が息を呑む。風待も何もしない。
『あなたは、私があの日、川辺で拾った子です。だから私は、あなたを守ろうとしました。あなたの本当の家族は、別にいます。』
あかりは震える指で読み進めた。
『そして、その家族を探すために、私はあなたを一度だけ風待家へ連れていきました。そこで、あなたは五人の子供たちと出会いました。
でも、その夜──あなたは、見てしまった。』
そこで文章が途切れていた。
「あの夜……私は何を見たの?」
母親は目を閉じる。
「私たちの父親を」
冬香が答えた。
「お父さんを?」
「違う」
母親が初めて強い声を出した。
「あなたが見たのは、あの人じゃない」
部屋の奥で、コトンと、何かが落ちた。
六つ目の箱だった。そこには、いつの間にか札がついていた。
『あかり』
そして、その下に小さな文字。
『見たもの』
「……私が見たもの?」
母親が震える。
「それを開けたら、全部思い出す」
あかりは箱を見つめた。
「じゃあ、開ける」
「だめ!」
母親が叫んだ。
その声と同時に、部屋の照明が消え、真っ暗になる。
そして暗闇の中で──誰かが笑った。それは、子供の声だった。
「やっと来た」
あかりは振り返る。
「誰?」
「僕だよ」
暗闇の中に、小さな少年が立っていた。
風待でもない。湊でもない。春樹でもない。見たことのない少年だ。
少年はあかりに手を伸ばした。
「ねえ、あかり」
「……あなたは誰?」
少年は笑った。
「君が、みんなに忘れさせた人」
あかりの背後で、母親が息を呑む。
「……やめて」
少年は続けた。
「僕の名前は──」
その瞬間、風待が叫んだ。
「遥!」
あかりは振り返った。
風待がこちらを見ている。
「君の名前は、あかりじゃない!」
「……え?」
「本当の名前は──」
風待の声が途切れた。
そして、少年が笑う。
「そう」
そして、少年は言った。
「その名前を知っているのは──“僕だけ”だよ」
暗闇の中で、あかりの手から鍵が落ちた。
カラン。
その音を最後に、世界がまた雨の音で満たされた。
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