忘れもの預かり処 第18話
名前を聞いた瞬間、遥の視界が真っ白になった。
遥の世界から音が消える。雨の音も、風待の声も、冬香の息遣いさえも、何も聞こえない。ただ、遠くから誰かが自分を呼んでいる。
──「あかり」
その名前だけが、何度も響いた。
「……あかり」
遥は呟いた。その瞬間、記憶が戻ってきた。
雨。古い旅館。濡れた畳。泣いている子供たち。そして、自分。
小さな自分は、赤いリボンの少女の手を握っていた。
「妹ちゃん」
幼い遥が言っている。
「大丈夫だよ」
少女は泣いていた。
「でも、お父さんが……」
「大丈夫」
遥は笑った。
「風待お兄ちゃんが助けてくれるから」
その向こうで、湊が立っていた。
まだ幼い風待もいる。冬香も。春樹も。五人の子供たちが、ひとつの部屋に集まっていた。
そして──大人の怒鳴り声。
何かが割れる音。
「逃げろ!」
湊が叫んだ。冬香が春樹の手を引く。風待は妹を抱き上げる。
そのとき、遥は気づいた。部屋の隅に、もう一人いた。
「……お母さん?」
若い女性が立っている。
遥の母親だった。母親は遥を見て泣いていた。
「ごめんね、あかり」
「どうしたの?」
「あなたの記憶を、預けるの」
「どうして?」
母親は答えなかった。
ただ、赤いリボンを遥の髪につけた。
「忘れれば、生きられるから」
「忘れたら?」
「この人たちのことも、私のことも」
遥は首を振った。
「嫌だ」
「お願い」
母親は遥を抱きしめた。
「いつか、全部返してもらえる日が来るから」
そして、母親は風待に何かを渡した。
──小さな鍵だった。
「この子をお願いします」
幼い風待は泣きながら頷いた。
「僕が守る」
「絶対?」
「絶対」
その直後、大きな音がした。
湊が振り返る。
「来る!」
五人が走り出した。
しかし、遥だけがその場に残った。
「お兄ちゃん!」
幼い風待が振り返る。
「早く!」
「……ごめん」
遥は泣いていた。
「私、忘れたくない」
「大丈夫」
風待が言った。
「忘れても、僕が覚えてる」
その言葉が最後だった。
視界が暗くなる。
そして──現在。
遥は床に膝をついていた。
「……あかり」
自分の名前を、もう一度口にする。
冬香が泣いていた。
「やっぱり……」
「知ってたの?」
「ううん」
冬香は首を振る。
「でも、その名前を聞いた瞬間、思い出した。あなたのお母さんが、私に言ったこと。『この子を、私たちの妹だと思って』って」
遥は息を呑んだ。
「じゃあ私は……」
「家族だった」
冬香が言う。
「少なくとも、あの日だけは」
そのとき、湊が口を開いた。
「違うよ」
三人が振り向く。
少年は、悲しそうに笑っていた。
「遥ちゃんは、最初から家族だった」
「……え?」
「僕たちが忘れたんだ」
湊は胸元を押さえた。
「僕たち五人が、遥ちゃんを忘れたんだよ」
そして、遥の足元に、一枚の写真が落ちてきた。
そこには六人の子供。その中央にいる、幼い「あかり」。写真の裏には──『六人で、ずっと一緒』
ではなく。別の言葉が書かれていた。
『六人で逃げる予定だった。──一人だけ、逃げなかった。』
遥は写真を見つめた。
「……誰が?」
湊が答える。
「お母さんだよ」
その瞬間、店の外で誰かが戸を叩いた。
コン、コン。
風待が顔を上げる。
「……まさか」
もう一度。
コン、コン。
そして、女の声。
「風待」
遥の心臓が止まりそうになった。
その声は二十二年前に死んだはずの──
“母親の声だった。”
遥の記憶に残っている母の声と、まったく同じだった。
「……お母さん?」
遥が呟く。
風待が遥の前に立った。
「開けないで」
「でも……」
「まだ、開けちゃいけない」
「どうして?」
風待は答えなかった。
その代わり、店の時計を見た。止まっていた針が、逆向きに進んでいる。
「この店は、忘れものを預かる場所だ」
風待が静かに言った。
「でも、ときどき……忘れもののほうから、持ち主を迎えに来る」
コン、コン。
三度目のノック。今度は、扉の向こうから別の声がした。
「風待兄ちゃん」
幼い声。遥が振り返ると、そこには湊がいた。
「……湊?」
「開けないで」
湊は笑っていた。
「母さんじゃないから」
冬香が息を呑む。
「じゃあ、あれは誰?」
湊は少し考えてから答えた。
「母さんの『忘れもの』」
その言葉と同時に、扉の向こうの声が変わった。
「……あかり」
遥の身体が震えた。
「お母さん……」
「違う」
風待が言う。
「遥。よく聞いて」
彼は振り返らずに続けた。
「君のお母さんは、あの日──この店に来ていない」
「じゃあ、どうして声が……」
「君の記憶の中にいるからだ」
遥は息を呑んだ。
「この店は、君が預けた記憶を保管していた」
「でも、私は今まで何も……」
「だから、戻ってきたんだ」
風待が扉を見る。
「二十二年ぶりに」
そのとき、赤いリボンの少女が扉の前に立った。
「お姉ちゃん」
遥が見ると少女は笑っている。
「まだ思い出してないことがあるよ。お母さんが、どうして逃げなかったのか」
遥の胸が痛んで、記憶が再び流れ込む。
あの日、母親は子供たちを逃がそうとしていた。けれど、最後まで動かなかった。
「……待って」
遥は頭を押さえた。
「違う。お母さんは……逃げなかったんじゃない」
遥の目が見開かれる。
「逃げられなかったんだ」
冬香が振り向く。
「どういう意味?」
遥は思い出していた。
母親は、子供たちを逃がすために残った。
そして最後に──鍵を風待へ渡した。
「お母さんは言った」
遥は震える声で続けた。
「『この鍵で、あかりの記憶を閉じて』って」
風待が目を閉じる。
「……そうだった」
「知ってたの?」
「ああ」
「じゃあ、どうして黙ってたの?」
風待はしばらく答えなかった。
「怖かったんだ」
初めて聞く弱い声だった。
「君に全部返したら、君まで僕たちの記憶に巻き込まれると思っていた」
「でも……」
風待は遥を見る。
「もう、遅い」
店内の空気が揺れた。
壁に掛かっていた写真が一枚、落ちる。
その写真には──大人になった風待。冬香。そして春樹。三人の後ろに、見知らぬ女性が立っていた。
遥はその女性を見た。
「……誰?」
冬香が写真を取り上げる。
「知らない」
風待も首を振る。
だが、湊だけが笑った。
「僕は知ってるよ」
「誰なの?」
湊は遥を見る。
「お母さん」
「……え?」
「今の、お母さん」
遥の背筋が凍った。
写真の日付は──二〇一二年。
母が死んだはずの年から、二十四年も後だった。
その写真の裏には、一行だけ。
『母は死んでいない。』
そして、その下に小さく──『死んだことにされたのは、あかりのほう。』
遥は言葉を失った。
その瞬間、誰も触れていないのに、店の扉がゆっくりと開いた。
雨の匂いとともに、一人の女性が立っていた。
そして、遥を見て、微笑む。
「久しぶりね、あかり」
遥は動けなかった。
その顔は──写真の中の母親と、同じだった。
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