忘れもの預かり処 第17話
「おかえり、遥」
扉の向こうから聞こえた声は、幼い女の子の声だった。
それなのに、遥には不思議なほど懐かしかった。
「……誰?」
返事はない。遥は取っ手を握った。
「開けていいの?」
風待が言う。
「待って」
「どうして?」
「その扉は、僕も知らない」
「……風待さんでも?」
「ああ」
風待は珍しく、はっきりと怯えていた。
「この店にある扉は、僕が覚えている限り三つだ」
「じゃあ、これは?」
「四つ目だ」
遥は手を離した。
すると──扉の向こうから、また声がした。
「遥ちゃん」
今度は別の声。男の子声だった。
「早く開けて」
遥の胸が締めつけられる。知らない声なのにどこか知っている。
「……春樹?」
思わず名前が口から出た。扉の向こうで、子供が笑った。
「違うよ」
「じゃあ、誰?」
「忘れたの?」
その瞬間、遥の頭の中に映像が流れ込んできた。
雨。古い旅館。赤い長靴。そして、六人の子供。その中にいる自分。
「……私、ここにいた」
「そうだよ」
冬香が呟いた。
「私たちは、あなたと会っていた」
遥が振り返ると、冬香の目には涙が浮かんでいた。
「思い出したの?」
「少しだけ」
冬香は胸元を押さえる。
「あなたは妹じゃなかった」
「……え?」
「私たちより年下だった。でも、家族でもなかった」
風待が続けた。
「君は、あの日だけ、この町にいた」
「誰と?」
「君のお母さん」
遥の呼吸が荒くなる。
「母は……私をここに連れてきたの?」
「うん」
「どうして?」
風待は答えなかった。代わりに、冬香が古い写真を取り出した。そこには、遥の母親と、幼い遥が写っていた。
二人の後ろに、父親らしき男が立っている。顔だけが黒く塗りつぶされていた。
「この人……」
遥が呟く。
「誰?」
冬香は首を横に振った。
「私たちの父親」
「……!」
「でも、あなたのお父さんでもある」
遥の手から写真が落ちた。
「待って。どういうこと?」
「分からない」
冬香は泣きながら笑った。
「だから私たちは、全部忘れたんだと思う」
そのとき、扉の向こうから、幼い遥の声がした。
「お兄ちゃん」
風待が顔を上げる。
「……僕?」
「うん」
遥は扉に耳を当てた。
「お兄ちゃん、あの子をお願い」
風待の顔が強張った。
「あの子って……誰?」
幼い遥は答えた。
「湊くん」
風待が息を呑む。
「湊を?」
「うん」
「どうして?」
しばらく沈黙があった。そして、幼い遥は言った。
「だって──」
「湊くんは、死んじゃうから」
店の空気が凍った。冬香が顔を覆う。風待は一歩、後ずさった。
「……違う」
「風待さん?」
「違う」
彼は首を振った。
「湊は、死んでいない」
その瞬間、扉の向こうから──
コン、コン。
二回。誰かが扉を叩いた。
そして、少年の声がした。
「兄ちゃん」
風待が顔を上げる。
「……湊?」
扉の向こうで、少年が笑った。
「今度こそ、僕を忘れないで」
ガチャリ。
誰も触れていないのに鍵が──ひとりでに回った。
「開く……」
遥が呟く。
風待は扉を見つめたまま動かなかった。
「風待さん?」
「……遥」
「うん」
「僕が開ける」
風待が一歩前へ出る。しかし、その手が取っ手に触れる寸前──
「兄ちゃん」
扉の向こうから、もう一度声がした。
「今度は、遥ちゃんも一緒に」
風待の手が止まった。
「……どうして君が、遥を知ってる?」
返事はない。代わりに、扉の下から一枚の紙が滑り出てきた。
それを遥が拾い上げる。そこには、子供の字でこう書かれていた。
『六人目は、湊じゃない』
「……え?」
風待が紙を奪うように見る。
その瞬間だった。店の奥から、何かが倒れる音がした。振り返ると、棚の箱がすべて床に落ちて、蓋が一斉に開いていた。
中から出てきたのは──写真。手紙。髪留め。古い切符。壊れた時計。
何十もの「忘れもの」が、床いっぱいに散らばっている。そして、その中央に一冊のノートがあった。
表紙には。
『風待家 記録』
と書かれている。
冬香が震える手で拾い上げた。
「こんなの……見たことない」
最初のページには家族構成が書かれていた。
父。母。風待。冬香。春樹。湊。そして──妹。
そこまでは、これまで分かっていた。
だが、その下にもう一行。
『預かり子──遥』
冬香の手が止まった。
「預かり子……?」
遥はその文字を見つめた。
自分の名前なのに他人の名前のようだった。
「私……預けられたの?」
風待がノートをめくる。
次のページには、日付があった。
一九八八年六月十二日。
そして短い文章。
『この子の記憶を預かる』
『返す日は、家族全員が揃ったとき』
「家族全員……」
遥が呟く。
「でも、どうして?」
風待はさらにページをめくった。最後のページだけ、文字が乱れていた。
『湊は、父を止める』
『冬香は、春樹を連れて逃げる』
『風待は、妹を守る』
『遥は──』
そこで文章が途切れている。
その下に、別の筆跡で書き足されていた。
『遥は、忘れる』
「……私が?」
「違う」
風待が言った。
「君が、自分から忘れたんじゃない」
「じゃあ、誰が?」
風待は答えなかった。代わりに、扉の向こうから声がした。
「僕だよ」
扉がゆっくり開く。
そこに立っていたのは少年だった。風待と同じ顔──湊。
ただし、以前現れた青年とは違う。十歳ほどの子供だった。濡れた髪に泥のついた服。そして、左手には赤いリボン。
「兄ちゃん」
少年は笑った。
「遥ちゃんを忘れさせたのは、僕」
「……なぜ?」
風待の声が震える。湊は少しだけ悲しそうな顔をした。
「だって、あのままだったら──」
少年は遥を見る。
「遥ちゃんが、僕たちの代わりに死んじゃうから」
「……え?」
湊は一歩、店の中へ入った。その瞬間、古い時計が動き始める。
止まっていた針が、ゆっくりと逆方向へ回り出した。
「思い出して、遥ちゃん」
湊が言う。
「君が最後に忘れたのは──」
少年の背後に、もう一人の小さな影が立った。
赤い長靴に赤いリボン。妹だった。
「──私のことじゃない」
少女は遥を見て笑った。
「あなたが忘れたのは──」
そして、遥の本当の名前を呼んだ。
その名前を聞いた瞬間、遥の中で、二十二年間閉じていた記憶が──一気に、開いた。
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