忘れもの預かり処 第16話
「六人目……?」
遥は、鍵についている札を見つめた。
『六人目を、探して』
その文字は、さっきまで存在していなかった。
風待も冬香も、何も言わない。ただ、白と黒の猫だけが、川辺から歩き出した。
「待って」
遥が呼ぶ。
猫は振り返らない。まるで、ついてこいと言っているようだった。
「風待さん」
「ああ」
「六人目って……誰?」
風待は答えなかった。
代わりに冬香が言った。
「私たち五人の他に、誰かがいた?」
「……分からない」
「でも、あの子は『六人目』って言った」
冬香は眉を寄せる。
「妹が五人目じゃないの?」
遥はそこで気づいた。
四人の写真。五人の写真。そして、六人目。
「もしかして……」
遥は鍵を握り直した。
「私?」
風待がこちらを見る。
「遥が六人目?」
「違う」
即答だった。
「どうして?」
「君は、君だからだ」
「それ、答えになってないよ」
風待は少しだけ困ったように笑った。
「……そうだね」
そのとき、猫が古い旅館の跡地へ入っていった。現在では更地になっている場所だった。しかし、雨上がりの空気の中では、そこに昔の旅館が薄く重なって見える。
「また……」
遥が呟く。
入口の脇に、小さな郵便受けがあった。猫はその前で止まる。
風待が近づき、鍵を差し込んだ。
カチリ。
鍵はぴったり合った。郵便受けの中には、一通の封筒が入っていた。
宛名は──
『遥へ』
「……私?」
封筒を受け取った遥の手が震える。
差出人の名前はなかった。けれど、裏側には子供の字で、
『六人で、ずっと一緒』
と書かれていた。
遥は封を切った。中に入っていたのは、一枚の紙。たった一行だった。
『遥は、六人目じゃない』
「……え?」
その下には、続きがあった。
『遥は、最初の一人』
意味が分からない。
風待も紙を覗き込む。そして──顔色を変えた。
「これは……」
風待は答えなかった。
紙の裏を確認すると、そこには古い日付が書かれていた。
二十二年前ではない。
もっと前。
『1988年六月十二日』
「……これ」
冬香が息を呑んだ。
「私たちが生まれる前じゃない」
風待は頷いた。
「僕が生まれるより、ずっと前だ」
遥は紙を見つめた。
「じゃあ、どうして私宛てなの?」
誰も答えられない。
そのとき、郵便受けの奥から、何かが転がり落ちた。それは、小さな写真だった。
風待が拾い、三人が写真を覗き込む。そこには、見知らぬ家族が写っていた。
父親。母親。そして──赤ん坊を抱いた若い女性。
遥は、その女性の顔を見た瞬間、息が止まった。
「……私」
「遥?」
「この人……」
遥は写真から目を離せなかった。
知らないはずの女性。会ったことなどないはずの人。なのに、どうしても分かる。この人は──自分の母親だ。
そして写真の裏には、こう書かれていた。
『この子を、風待に預ける』
遥の手から、鍵が落ちた。
カラン。
地面に落ちた鍵が、乾いた音を立てる。
その鍵にはいつの間にか、新しい文字が刻まれていた。
『遥の本当の名前を、思い出して』
♢♢♢
「……本当の名前?」
遥は鍵を拾い上げて、刻まれた文字を、何度も指でなぞる。
『遥の本当の名前を、思い出して』
「私の名前は、遥だよ」
そう言った自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
冬香が写真を拾う。
「この女性が……あなたのお母さん?」
「分からない」
「でも、そう思ったんでしょう?」
遥は頷いた。理由はない。ただ、見た瞬間に分かった。写真の女性は、自分を抱いている。その顔を見ていると、胸の奥が痛くなる。
「風待さんは……何か知ってる?」
風待は答えなかった。
「知ってるんだね?」
「……少しだけ」
「少し?」
「正確には、忘れていた」
その言葉に、遥は顔を上げた。
「また?」
風待は苦笑した。
「この店にいると、忘れものばかり増える」
「私のことも?」
「……君に初めて会ったときから、妙な感じがしていた」
「何が?」
「昔、会ったことがあるような気がした」
遥の心臓が強く動いた。
「いつ?」
「覚えていない」
「また……」
「でも、一つだけ覚えている」
風待は写真を見つめた。
「君を抱いたことがある」
遥は言葉を失った。
「そんなはず……」
「そうだね」
風待は静かに続けた。
「僕は当時、まだ子供だった」
「じゃあ……」
「だから、たぶん僕じゃない」
風待は写真の裏を見た。
そこには、別の文字があった。さっきまでなかった。
『風待に預けるのは、子供ではない』
さらにその下に。
『記憶を』
とだけ書かれていた。
冬香が息を呑む。
「記憶……?」
遥は写真を握りしめた。
「私の記憶を、風待さんに預けた?」
「そういう意味に見える」
「誰が?」
そのとき、店の奥から声がした。
「お母さんだよ」
遥が振り返るが誰もいない。ただ、白と黒の猫が棚の上に座っている。そして猫の隣に、一冊の古いアルバムがあった。
遥はアルバムを開いた。
一枚目。見知らぬ家。
二枚目。赤ん坊の自分。
三枚目。幼い風待。
四枚目──そこには、子供が六人いた。
風待。冬香。春樹。湊。妹。
そして──遥。
「……嘘」
遥の指が震える。
六人の子供が、並んで笑っている。でも、おかしい。遥はその写真を見たことがない。なのに。写真の中の自分だけが、こちらを見て笑っていた。そして、その隣にいる小さな女の子が、遥の手を握っている。
女の子の名前が、写真の下に書かれていた。
『遥』
「……え?」
同じ名前。遥自身の名前。けれど、その写真の日付は──“一九八八年六月十二日。”
遥が生まれるより、はるか昔だった。
「どういうこと……?」
風待がアルバムを閉じた。
「遥」
「なに?」
「君は、自分の誕生日を覚えている?」
「もちろん──」
そこで遥は止まった。
何月何日だったか。すぐには出てこない。いや、思い出せない。
「……え?」
頭の中が真っ白になる。
冬香が小さく息を呑む。
「風待……」
「ああ」
風待は遥を見つめた。
「君は、自分の名前だけじゃない」
そして、静かに言った。
「自分がいつ生まれたのかも、忘れている」
遥の背後で、カタン、と音がして振り返る。
店の壁に、見知らぬ扉があった。古い木の扉。その中央には札が掛かっている。
『忘れもの預かり処 風待』
その下に、もう一枚。
『遥の記憶』
遥はゆっくりと手を伸ばした。
取っ手に触れた瞬間──扉の向こうから、子供の声が聞こえた。
「おかえり、遥」
その声を聞いた瞬間、遥は初めて、自分がこの店に「来た」のではなく──“帰ってきたのだと知った。”
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