忘れもの預かり処 第15話
「……妹?」
冬香の声は、ひどく小さかった。
けれど、雨音の中でも、その一言だけは妙にはっきり聞こえた。
風待は何も言わなかった。ただ、古い写真を握ったまま、じっと冬香を見ている。
「私たちに……妹がいた」
冬香はもう一度、確かめるように呟いた。
「名前は……」
そこで言葉が止まった。
眉間に皺を寄せ、目を閉じる。
「……思い出せない。名前だけじゃない。顔も、年齢も。生まれた年さえ……」
「違う」
冬香が遮った。
「思い出せないんじゃない」
冬香は震える手で、自分の胸元を押さえた。
「思い出そうとすると……怖いの」
その言葉に、遥は息を呑んだ。
冬香は写真を見つめる。そこには四人の子供が写っている。
風待。
冬香。
春樹。
湊。
そして──本来なら、そこにもう一人いるはずなのだ。
「この写真……」
遥が呟いた。
「五人目がいる場所だけ、妙に空いてます」
写真の右端にある木の幹の横、誰かが立っていたような、不自然な余白があった。
雨に濡れた写真の紙が、そこだけ波打っている。まるで、そこにいた人間だけを、後から切り取ったように。
風待が写真を裏返した。
何も書かれていない。
その瞬間だった。
──カタン。
店の奥で音がした。
三人が振り向くと棚の上に置かれていた小さな箱が、床に落ちていた。
蓋が開いている。
遥は近づき、箱の中を覗いた。
中には古い髪留めが一つ。赤い、小さなリボン。そして、その下に紙切れが入っていた。
風待が拾い上げる。
そこには、子供の字でこう書かれていた。
『妹は、ここにいる』
「……ここ?」
遥が聞く。
風待は答えなかった。冬香が紙を見た瞬間、顔色を変えた。
「それ……」
「知ってるの?」
「ううん」
冬香は首を振った。
「でも……この字、知ってる」
「誰の字?」
冬香はしばらく黙っていた。やがて、震える声で言った。
「妹の字」
その瞬間、店の外で鈴が鳴った。
誰も触れていないはずの、入口の風鈴だった。
チリン。
チリン。
雨は激しくなっている。なのに風鈴だけが、何度も鳴る。
風待が立ち上がった。
「……来た」
風待は何も言わず、店の戸を開けた。
外には誰もいない。ただ、濡れた石畳の上に、小さな赤い長靴が一足だけ置かれていた。
子供用だった。そして、その横に──白と黒の猫が座っていた。
猫は風待を見る。それから、遥を見る。最後に、店の奥にいる冬香を見ると、小さく一度だけ鳴いた。
「……にゃあ」
その声に、冬香が立ち上がった。
「この猫……」
冬香の顔から血の気が引いていく。
「昔も……この子がいた」
「昔?」
「妹がいなくなった日」
冬香は赤い長靴を見つめた。
「妹は、これを履いていた」
雨の向こうから、どこか遠くで、子供の笑い声がした。
そして──
「お姉ちゃん」
冬香が振り返る。誰もいないけれど、店の奥、さっきまで何もなかった壁に、いつの間にか一枚の写真が貼られていた。
五人の子供が写っている。今度は、ちゃんと五人。その一番端にいる小さな女の子だけが、こちらを見て笑っていた。
写真の裏には、たった一行。
『妹を忘れたのは、誰?』
「妹を忘れたのは、誰?」
写真の裏に書かれた文字を、風待は何度も読み返した。
「……私だ」
最初に口を開いたのは、冬香だった。
「私が、忘れたんだと思う」
「どうして?」
遥が尋ねると、冬香は答えず、写真の女の子を指でなぞった。
「この子……笑ってるでしょう。昔から、よく笑う子だった」
その言い方が妙だった。
まるで、遥には見えない何かを見ているようだった。
「名前は?」
冬香の唇が震える。
「……」
「冬香さん?」
「……名前を呼んだら、思い出してしまう気がする」
風待が写真を取り上げた。
「なら、無理に思い出さなくていい」
「でも」
冬香が風待を見る。
「あなたも、忘れてるでしょう」
風待は黙った。
「湊のことも、春樹のことも。私のことさえ……あなたは一度、忘れていた」
「……そうだね」
「だったら、この子だけじゃない」
冬香の目から涙が落ちた。
「私たちは、ずっと誰かを忘れ続けてる」
その瞬間だった。
店の奥から、古い柱時計の音が響いた。
──ボーン。
遥は時計を見た。針は十二時を少し過ぎたところで止まっている。
「時計……動いてる?」
「動いてない」
風待が答える。
「この時計は、十年前から壊れている」
──ボーン。
二度目。
「じゃあ、今の音は……」
三人とも黙った。
──ボーン。
三度目。
そのたびに、店の景色がわずかに変わっていく。
棚に並んだ箱が増えている。壁の写真が古くなっている。そして、窓の外に見える景色が──昔のものになっていた。
舗装される前の道。取り壊される前の旅館。雨の中に立つ、古い「風待ち」の看板。
遥は息を呑んだ。
「これ……過去?」
風待が答える。
「たぶん」
「じゃあ、あの日に戻ってるの?」
冬香が立ち上がった。
「妹が消えた日……」
その声に反応したように、猫が店の外へ歩き出した。
「待って!」
冬香が追う。遥と風待も続いた。
猫は昔の道を迷うことなく進んでいく。やがて、古い旅館の裏手にある川辺で立ち止まった。
対岸に、小さな女の子がいた。赤い長靴に黄色い傘。こちらに背を向けている。
「……妹」
冬香が呟く。
女の子が振り返った。顔は見えない。けれど、その声だけは聞こえた。
「お姉ちゃん」
冬香が川へ駆け寄る。
「待って!」
女の子は笑った。
そして、言った。
「私を忘れたのは、お姉ちゃんじゃないよ」
冬香の足が止まる。
「じゃあ……誰?」
女の子は遥のほうを指差した。
「──あの人」
遥は凍りついた。
「……私?」
女の子は頷いた。
「あなたが、一番最後に忘れるの」
「何を……?」
女の子は答えなかった。代わりに、猫が遥の足元へ何かを落とした。
古びた鍵。見覚えのある札がついている。
『忘れもの預かり処 風待ち』
その裏には──
『最後の忘れもの──遥』
と書かれていた。
「……私の、忘れもの?」
風待が後ろから静かに言った。
「遥」
「なに?」
「その鍵……どこかで見たことはない?」
遥は鍵を握りしめた。すると、不意に。記憶の奥底から、知らないはずの声が聞こえた。
──「お兄ちゃん、早く。みんなが待ってる」
遥は目を見開いた。
その声は、冬香でも風待でもなかった。そして遥自身でもない。
もっと幼い──女の子の声だった。
川の向こうで、女の子が笑う。
「やっと思い出したね」
雨が止んだ。
その瞬間、過去の景色がすべて消えた。残されたのは現在の川辺と、遥の手の中にある一本の古い鍵だけだった。
鍵の札には、もう一つ新しい文字が浮かんでいた。
『六人目を、探して』
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