忘れもの預かり処 第14話
──春樹として生きて。
その言葉が、鏡の中で何度も繰り返された。
遥は冬香を見る。冬香は、青ざめた顔で鏡を見つめていた。
「……私が?」
誰に尋ねるでもなく呟く。
「私が、湊に言ったの?」
「そうです。冬香が」
風待が答えた。
「でも、どうして?」
「分かりません」
「また……」
遥が思わず口を挟む。
「でも、今度は分からないじゃ済まないよ」
風待は黙った。
鏡の中では、あの日の光景が続いている。
雨。旅館。泣いている少年。そして冬香。
「湊」
風待が鏡に手を伸ばした。
「お前は、何があったんだ?」
少年は答えない。代わりに、鏡の中の冬香が振り返った。
「兄ちゃん」
幼い冬香の声だった。
「春樹をお願い」
風待は目を見開く。
「私は、この子を連れていくから」
「どこへ?」
幼い冬香は泣いていた。
「わからない。でも、ここにいたらまた同じことになる」
遥には意味が分からない。けれど風待には何かが分かったようだった。
「……そういうことだったのか」
「何が? わかるように説明して」
「両親のことです」
風待は言った。
「私たちの父は、怒ると手がつけられない人でした」
冬香が俯く。
「母も、何度も家を出ようとした。私たち四人を連れて逃げようとしていた」
風待は鏡を見る。
「でも、あの夜、父に見つかった」
遥は息を呑む。
「冬香は、私と春樹を逃がした」
「湊は?」
「……」
風待は目を閉じた。
「湊だけが戻ったんです」
鏡の中で、幼い湊が笑っている。そして風待に向かって言う。
「兄ちゃん、僕が父さんを止める」
風待が震える。
「湊……」
「だから、二人を連れて逃げて」
その直後、鏡の映像が激しく揺れた。
雨音。怒鳴り声。何かが倒れる音。
そして──暗闇。
「湊は、死んだの?」
遥が尋ねるが風待は答えない。冬香が代わりに言った。
「……分からない。でも、二十二年前に、私は……湊を置いて逃げた」
冬香の声が震える。
「春樹だけを連れて……春樹が、私の手を離さなかったから」
冬香は涙を拭った。
「怖かったの。だから私は、自分が守れる一人だけを選んだ」
風待は黙って聞いている。
「そのあと、春樹を連れて東京へ行った」
「じゃあ、今までの春樹は?」
「私がそう呼んでいた子。本当の春樹は、別の場所にいた」
遥の背筋に寒気が走った。
「どこに?」
「分からない」
冬香が首を振る。
「だから私は、ずっと探している」
風待が尋ねる。
「なら、なぜ私に連絡しなかった?」
「兄ちゃんは、私を探していた」
「当然だ」
「でも、兄ちゃんが見つけたら、湊のことも探すでしょう?」
「それがどうした?」
「湊を探して、もし生きていたら──」
冬香は唇を噛んだ。
「私は、あの子に謝らなければならない」
「それが怖かった?」
「うん」
風待はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「私も同じです」
「え?」
「私も、ずっと冬香に会うのが怖かった」
冬香が顔を上げる。
「責められると思っていた」
「……」
「でも、違った」
風待は微笑んだ。
「私たちは、二人とも怖かったんですね」
冬香の目から涙が落ちた。
その瞬間、鏡が再び光った。
遥が振り返るとそこには、四人の子供がいた。
風待。冬香。春樹。──湊。
四人は手を繋いでいる。その中心に、小さな鍵が浮かんでいる。
「鍵……」
遥が呟く。
風待がポケットから、旅館で見つけた鍵を取り出す。すると鍵が二つ、同時に光った。
「二つで一つ?」
遥が言う。
「たぶん」
風待が鍵を合わせる。
かちり。
すると、鏡の裏から小さな引き出しが現れた。
中には一枚の紙。そこに書かれていたのは、住所だった。
登久島県──。
遥が読み上げる。
「……ここ、日本の西側だね」
「はい」
風待が住所を見る。
「行きましょう」
「今から?」
「今からです」
冬香が立ち上がる。
「私も行く」
「もちろん」
風待が頷く。
「今度は、四人で」
遥は少し笑った。
「四人?」
風待が写真を見る。
「ええ」
「湊くんも?」
「はい」
風待は写真を胸にしまった。
「生きているなら、四人で会いましょう」
その言葉に、遥も頷いた。
旅館を出る直前、遥は一度だけ振り返った。
古い鏡のひび割れた表面、そこに一瞬だけ人影が映った。
幼い少年──湊。
少年は笑っている。そして口を動かした。
──ありがとう。
遥は目を瞬いた。すると、もう誰もいない。ただ床の上に、一枚の紙が落ちていた。
遥はその紙を拾い上げる。そこには、新しい言葉が書かれている。
──“最後の一人は、まだ忘れている。”
「……最後の一人?」
遥が呟く。それを聞いていた風待が振り返る。
「どうしました?」
「これ」
遙は風待に紙を渡し、風待は読んだ。
そして、顔を曇らせる。
「……四人ではない」
「え?」
「私たちは、最初から四人じゃなかったのかもしれません」
遥の背中に、冷たいものが走った。
冬香も紙を見る。
その瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「……そうだ」
「何?」
「思い出した」
冬香が震える声で言った。
「私たちには──」
一度、言葉を失う。
「“もう一人、妹がいた”」
そう言った瞬間、雨がまた降り始めた。
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