忘れもの預かり処 第30話
扉の向こうから、風が吹いていた。
だがそれは、冷たい風ではなかった。雨の匂いと、古い木の匂い。どこか懐かしい、家の中のような匂いだった。
「……行こう」
遥が言った。
風待は何も答えなかった。けれど、その手は遥の手を離さなかった。
真白、冬香、春樹、湊、そしてしずく。みんなが扉の前に立つ。扉には、こう文字が刻まれていた。
──忘れものは、忘れた人のところへ。
「……これ」
冬香が呟いた。
「この店そのもののことじゃない?」
遥は扉に手を触れた。すると、鍵穴もないのに扉が静かに開いた。
中にあったのは、部屋だった。ただの小さな部屋。中央に机があり、その上に一冊の古い帳面が置かれている。そして壁には、無数の紙が貼られていた。
名前。日付。短い言葉。
『湊を忘れる』
『春樹を忘れる』
『真白を忘れる』
『しずくを忘れる』
『遥を守るため、竜太を忘れる』
遥は息を呑んだ。
「……全部、ここにあったんだ」
風待が静かに答えた。
「僕たちが、忘れることを決めた場所」
「違う」
遥は首を振った。
「決めたんじゃないよ」
机の帳面を開く。
最初のページには、古い文字でこう書かれていた。
『忘れることは、守ることになる』
その下に、何人もの名前。けれど、その名前の横には、すべて同じ印がついていた。
──誰かを残すために、誰かを消した。
「これが……お父さんのやったこと」
冬香が言った。
「ううん」
遥は首を振った。
「お父さんだけじゃない」
ページをめくる。そこには、もっと古い日付が並んでいた。何十年も前。さらに、その前。同じ言葉が繰り返されている。
忘れる。守る。残す。そして──また、忘れる。
「ずっと続いてたんだ」
春樹が呟いた。
「誰かが始めたんじゃない」
真白が言った。
「みんなが、怖くて続けてしまったんだ」
遥は帳面を閉じた。
「だったら」
彼女は机の上に、あの日の古い鍵を置いた。
「私たちで終わらせよう」
その瞬間、部屋中の紙が、一斉に風に舞った。
紙に書かれた名前が消えていく。ではなく──紙そのものが、ほどけていく。
「遥!」
風待が叫ぶ。
遥は振り返った。
「大丈夫」
そして、笑った。
「もう、忘れなくていいから」
最後の一枚だけが、机の上に残った。
そこには一つの言葉。
『忘れるという約束を、忘れる』
遥はその紙を、両手で破った。ぱらり、と紙片が落ちる。
それと同時に、店のどこかで大きな音がした。長い間止まっていた時計が──動き始めた。
♢♢♢
時計の針が動いた。
ひとつ。また、ひとつ。止まっていたはずの時計が、店のあちこちで時を刻み始める。
その音は、最初は小さかった。
けれど次第に重なり合い、店全体が大きな呼吸をしているように聞こえた。
──カチ、カチ、カチ。
「終わった……の?」
春樹が尋ねた。真白は答えなかった。代わりに、部屋の隅を見つめている。そこに、父親が立っていた。
いつからいたのか、誰にも分からない。けれど今までとは違っていた。輪郭が薄くなっている。
「お父さん」
冬香が呼んだ。
父親は少しだけ笑った。
「……そう呼んでもらえるのも、これで最後かもしれないな」
遥は首を振った。
「違うよ」
「何がだ」
「お父さんが消えるんじゃない」
遥は一歩近づいた。
「忘れられていたものが、戻っていくんだよ」
父親は黙っていた。
「だったら……私の名前も戻るのか」
「うん」
「だが、私は自分の名前を覚えていない」
「それでもいい」
遥は言った。
「名前は、一人で覚えるものじゃないから」
冬香が父親のそばへ歩いていく。
春樹も続いた。湊も。真白も。最後に風待が並んだ。
誰も、父親の名前を知らない。けれど、誰もその場から離れなかった。
「……変な話だな」
父親が呟いた。
「名前を忘れた私を、名前を忘れない子どもたちが囲んでいる」
遥は少し笑った。
「だって、家族だから」
その言葉に、父親の顔が歪んだ。泣いているのかもしれない。けれど涙は落ちなかった。代わりに、遠くで何かが崩れる音がした。
振り返ると、店の棚から古い箱が一つ落ちている。箱には、父親の字でこう書かれていた。
『忘れたもの』
それを風待が拾い上げる。
蓋を開けると、中には一枚の写真が入っていた。まだ幼かった五人。
風待。冬香。春樹。湊。そして、赤いリボンをつけた小さな女の子──遥だった。
写真の裏には、短い言葉があった。
『いつか、この子たちが全部思い出せますように』
風待が息を止めた。
「……お父さん」
父親は写真を見ていた。
「それを書いたのは、私だ」
「じゃあ、最初から……」
「いや」
父親は首を振った。
「最初から分かっていたわけじゃない。怖かったんだ。失うことが」
父親は言った。
「だから、忘れれば失わずに済むと思った」
遥は何も言わなかった。
許すことも、責めることもできなかったただ、その言葉だけは聞いた。
そして写真を父親へ返した。
「もう、忘れなくていいよ」
父親は写真を受け取った。
その瞬間、写真の隅にあった、黒く塗り潰された部分が──ゆっくりと薄くなった。
けれど、そこに新しい名前が現れることはなかった。ただ空白だけが残った。
遥は、それを見て微笑んだ。
もう、そこに名前を入れる必要はない。名前を失った人を、別の名前で縛る必要もない。
ただ、その人がここにいたことを覚えていればいい。
店の時計が、十二時を指していた。
そして──川の向こうから、朝の光が差し込んできていた。
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