忘れもの預かり処 第12話
「……春樹じゃない?」
風待の声が、ひどく小さかった。
冬香は頷いた。
「違うの」
「じゃあ、あの子は誰だ」
「分からない」
「分からないって……」
「私も、あの子が誰なのか知らない」
冬香は写真を壁から外した。
「ただ、私たちはあの子を春樹だと思った」
「私たち?」
「私と、兄ちゃん」
遥は写真を見る。
そこに写っているのは、確かに幼い少年だった。
けれど──
「風待さん」
「はい」
「この写真……日付が違う」
写真の裏を見る。そこには、一九九九年八月三日と書かれている。
「二十二年前なら二〇〇四年だよ」
「……」
風待が固まった。
冬香も黙っている。
遥は写真を裏返した。
「これ、もっと前の写真じゃない?」
「そうです」
風待が答える。
「二〇〇四年ではありません」
「じゃあ、なんで……」
「分かりません」
冬香が言った。
「その写真を見つけたのは、私が東京に来てから」
「どこで?」
「兄ちゃんの店から」
風待が顔を上げる。
「私が?」
「うん」
冬香は小さく笑った。
「正確には、兄ちゃんが店を始める前」
冬香は二十二年前のことを話し始めた。
「春樹がいなくなった夜」
窓の外を見ながら。
「私は兄ちゃんを探していた」
「私を?」
「うん」
「どうして?」
「家に帰ってこなかったから」
風待は黙って聞いている。
「でも、見つからなかった」
「……」
「それで、私は旅館へ行った」
「春樹が見つかった場所?」
「そう」
「そこで、あの子がいた」
「春樹?」
「違う」
冬香は首を振る。
「でも、私には分からなかった」
少年はずぶ濡れで、廊下の隅に座っていた。
「名前は?」
冬香が聞くと、少年は答えた。
──分からない。
「年齢も、住所も、自分の名前さえも分からなかった」
「それで?」
「私は、春樹だと思った」
遥が尋ねる。
「なぜ?」
「服が似ていたから」
冬香は目を伏せた。
「そして、私しか知らないことを一つ知っていた」
「何を?」
「兄ちゃんのこと」
風待が顔を上げる。
「私たち三人しか知らない秘密を、その子は知っていた」
「……どんな秘密?」
冬香は答えなかった。
「それを聞いたから、私はその子を春樹だと思った」
「じゃあ、春樹は?」
「分からない」
「……」
「本当の春樹は、今もどこかにいるのかもしれない」
風待は写真を握りしめた。
「では、あの青年は誰なんだ」
「それを調べるために、私は東京へ来た」
「ずっと?」
「うん」
「私に何も言わずに?」
「兄ちゃんに言ったら、絶対に探しに来るから」
「当たり前だ」
「だから言えなかった」
冬香は少し笑った。
「兄ちゃんは昔から、そういう人だった」
「じゃあ、春樹は?」
遥が聞いた。
「本当の春樹は、どこにいるの?」
冬香は答えなかった。
代わりに、部屋の隅にある古い箱を開けた。中から、何枚もの写真が出てくる。
幼い三人。旅館。川。夏祭り。
そして──一枚だけ、見知らぬ少年が写っている。
「この子……」
遥が指差す。
「さっきの写真と同じ子」
「そう」
冬香は頷いた。
「でも、この写真の日付は二〇〇四年」
風待が眉を寄せる。
「さっきの写真は一九九九年だった」
「そうなの」
「じゃあ、五年も前の同じ少年?」
「それだけじゃない」
冬香は写真を一枚ずつ並べた。
一九九九年。
二〇〇一年。
二〇〇四年。
二〇〇八年。
二〇一二年。
どの写真にも、同じ少年が写っている。年齢も顔も、服装さえも。まったく変わっていない。
遥の背中に寒気が走った。
「……何これ」
冬香が言う。
「私にも分からない」
風待は写真を見つめていた。
「でも、一つだけ分かっていることがある。この少年は」
冬香が写真の少年を指差す。
「春樹がいなくなった日より、ずっと前から存在していた」
「じゃあ……」
遥は言葉を失う。
「春樹くんは、この少年じゃない?」
「うん」
「じゃあ、春樹くんはどこ?」
「それを探しているの」
冬香は一枚の写真を取り出した。そこには古い旅館の玄関。その前に、幼い風待と冬香が立っている。
そして二人の間に──小さな男の子がいる。
「……春樹」
風待が呟いた。
冬香は頷く。
「これが、本当の春樹」
写真の少年は笑っている。
遥は写真の隅を見る。
そこに、小さな白黒の猫が写っていた。
「……猫?」
冬香が笑う。
「そう」
「この猫……」
「兄ちゃんの店にいる子と同じ」
遥は言葉を失った。
「でも、二十二年前の写真だよ?」
「そう」
冬香は猫を見る。
猫は何も言わない。ただ、写真を見つめている。
「この子は、ずっと私たちを見ているの」
「何のために?」
「分からない」
冬香は猫を床に下ろした。
猫は写真の前まで歩いていく。そして、写真の中の春樹を、前足で一度だけ叩いた。
写真が落ちた。裏側。そこには一行。──春樹は、川の向こう。
「川?」
遥が尋ねる。
冬香が答える。
「旅館の裏を流れている川」
「でも、春樹はそこで見つかったんじゃないの?」
「違う」
冬香は首を振る。
「見つかったのは、春樹ではなく──」
言葉を切る。
「春樹を知っている少年だった」
その夜。三人は東京を離れた。向かう先は、あの古い旅館。風待は運転しながら、一度も口を開かなかった。
後部座席では冬香が眠っている。
遥は窓の外を見ていた。
「風待さん」
「はい」
「春樹くん、本当に川の向こうにいると思う?」
「分かりません」
「冬香さんは?」
「探すでしょう」
「風待さんは?」
少し間があった。
「私も探します」
「……そっか」
やがて旅館に着く。夜の山は真っ暗だった。
三人で川へ向かう。
水音だけが聞こえる。
冬香が立ち止まった。
「ここ」
「何かある?」
「二十二年前」
冬香は川を見つめる。
「春樹と最後に話した場所」
「何を話したの?」
「約束をした」
「どんな?」
冬香は笑った。
「三人で、ずっと一緒って」
風待が黙る。
その時、川の向こう岸に、何かが見えた。
「……人?」
遥が目を凝らす。
白い服。小さな人影。こちらを向いている。
「春樹?」
風待が叫ぶ。
人影は動かない。
そしてその足元に、白黒の猫が現れた。
「……」
猫がこちらを見る。
次の瞬間、人影が手を上げた。
そして、遥たちに向かって叫ぶ。
「兄ちゃん!」
風待が息を呑む。
声は、あの青年と同じだった。
「兄ちゃん!」
もう一度。
けれど今度は──
「早く忘れて!」
川の向こうで、雷が鳴った。
強い雨が降り始める。
風待が川へ踏み出そうとする。
「待って!」
遥が腕を掴む。
「危ない!」
「でも!」
「今は無理!」
雨が激しくなる。
向こう岸の人影が見えなくなる。
冬香が呟いた。
「……春樹」
その声に、風待が振り返る。
「冬香」
「何?」
「お前は、何を知っている?」
冬香は答えなかった。
ただ、泣きそうな顔で笑った。
「私も、忘れてたの」
「何を?」
「春樹がいなくなった、本当の理由を」
そして冬香は、川を見つめた。
「たぶん、春樹は私たちから逃げたんじゃない」
「じゃあ?」
「私たちを守るために、いなくなったの」
風待が立ち尽くす。
その時、遥の足元に小さなものが流れ着いた。
拾い上げたそれは古びた鍵。そして、その鍵には札が結ばれていた。
──忘れもの預かり処 風待ち
裏には、見覚えのない筆跡で。
──最後の忘れものは、兄ちゃん自身。
風待がそれを見た瞬間、遥の背後から、幼い声がした。
「違うよ」
三人が振り返る。
誰もいない。ただ、雨の中に一匹の白黒猫だけが立っていた。
猫は静かに鳴いた。
そして──風待の足元に、一枚の写真を落とした。
そこに写っていたのは幼い風待。冬香。春樹。そして、その後ろに立つ──もう一人の風待。
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