忘れもの預かり処 第10話
風待は鍵を見つめていた。
「冬香が、お前の何を忘れた?」
「僕じゃない」
「じゃあ誰?」
「兄ちゃん」
風待が顔を上げる。
「兄ちゃんが忘れたんだ」
「何を?」
青年は窓の外を見る。
雨が降り始めていた。
「約束」
風待の顔から血の気が引く。
「……約束?」
「三人で、ずっと一緒っていう約束」
青年は笑った。
「兄ちゃん、覚えてないでしょう?」
風待は答えない。
遥は写真を見た。
幼い三人。その裏には、確かに同じ言葉がある。
──三人で、ずっと一緒。
「二十二年前」
青年が言った。
「僕は迷子になったんじゃない」
風待を見る。
「僕は、自分からいなくなった」
「……なぜ?」
「怖かったから」
「何が?」
「兄ちゃんが、冬香姉ちゃんを連れて行くって言ったから」
遥は眉をひそめる。
「どこへ?」
「遠くへ」
青年は答えた。
「両親が離婚して、冬香姉ちゃんは母さんと暮らすことになった」
風待が目を伏せる。
「私は……」
「嫌だったんでしょう?」
青年が笑う。
「だから、姉ちゃんを連れて逃げようとした」
風待は何も言わない。
「僕はついていくって言った」
「……」
「でも兄ちゃんは、『お前は来るな』って言った」
風待が目を閉じた。
「それで、僕は家を飛び出した」
「そして?」
「雨が降った」
青年の声が少し遠くなる。
「古い旅館に入った」
遥は周囲を見回した。
「ここ?」
「そう」
「そこで何があったの?」
「冬香姉ちゃんが来た」
青年は笑った。
「僕を見つけてくれた」
「じゃあ、一緒に帰った?」
「ううん」
青年は首を振った。
「姉ちゃんは、帰らなかった」
「どうして?」
「兄ちゃんが、僕を探してると思ったから」
風待が顔を上げる。
「冬香は……私を?」
「うん」
「じゃあ、なぜ……」
「兄ちゃんが忘れてると思ったから」
青年はポケットから、小さな紙を取り出した。
「これ、姉ちゃんが書いた」
風待が受け取る。
そこには。
──兄ちゃんは、きっと私を忘れる。
と書かれていた。
「だから、私も忘れる」
その下に。
──春樹のことも。
風待の手が震えた。
「……違う」
「何が?」
「私は、忘れてなんか……」
「でも、店を始めた時」
青年が言う。
「姉ちゃんの名前を、棚に入れなかった」
風待は何も言えない。
「忘れたんじゃない」
青年が笑う。
「怖くて、思い出せなかったんだよ」
♢♢♢
青年は、少しずつ姿が薄くなっていた。
「……春樹?」
遥が声をかける。
「大丈夫」
「どういうこと?」
「僕は、ずっとここにいたわけじゃないから」
「じゃあ、今までどこに?」
「分からない」
青年は笑った。
「でも、もういいんだ」
風待が青年の腕を掴む。
「待て」
「兄ちゃん」
「冬香はどこにいる?」
「……」
「教えてくれ」
青年は少しだけ寂しそうに笑った。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「忘れていいよ」
「何を?」
「僕たちのこと」
「……」
「姉ちゃんも、僕も」
風待の目に涙が浮かぶ。
「そんなこと、できるか」
「じゃあ」
青年が言う。
「思い出して」
風待は青年を見つめた。
「何を?」
「三人でいた時間」
青年の姿が、さらに薄くなる。
「それだけでいい」
風待は何も言わなかった。ただ、写真を胸に抱いた。
そして。
「……春樹」
「うん」
「ごめんな」
青年が笑った。
「遅いよ」
「……そうだな」
「でも、聞けたからいい」
青年の姿が消える。最後に、声だけが残った。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「冬香姉ちゃんは、まだ待ってる」
そして、消えた。
♢♢♢
店に戻ると、風待は棚の前に立った。そこには二つの札。
──風待冬香。
──風待春樹。
風待は、春樹の札を外した。そして新しい札を作る。
そこには“『三人で過ごした夏』”と書かれていた。
「それでいいの?」
遥が尋ねる。
「はい」
「春樹くんを忘れたわけじゃないよね」
「もちろん」
風待は微笑んだ。
「忘れものにしておく必要がなくなっただけです」
その時店の扉が開いた。
からん。
入ってきたのは、結衣だった。赤いリボンを手にしている。
「こんにちは」
「こんにちは」
風待が笑う。
「どうしました?」
「これを……」
結衣はリボンを差し出した。
「返しに来ました」
「傘は?」
「置いてきました」
「そうですか」
「でも、このリボンだけは」
結衣は笑った。
「もう、持っていていいかなって」
風待は頷いた。
「そう思えるなら、それでいいと思います」
結衣が帰ったあと遥は窓の外を見た。雨が止んでいる。雲の切れ間から、夏の終わりの光が差していた。
「ねえ、風待さん」
「はい?」
「この店って、本当に変な店だね」
「そうですね」
「でも、嫌いじゃない」
「私もです」
風待が笑う。
猫がカウンターに飛び乗った。その口には、また何かを咥えている。
「……また?」
遥が覗き込む。猫が落としたのは、一枚の古い切符だった。
日付は二十二年前。行き先は──“東京”そして裏には、赤いペンで一言。
──『冬香は、東京にいる。』
風待は切符を手に取った。
しばらく黙っていた。やがて、静かに笑う。
「……猫というのは」
「うん」
「本当に、余計なことをしますね」
猫が鳴いた。
まるで『まだ終わってないよ』とでも言うように。
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