忘れもの預かり処 第6話
風待冬香。
その名前が書かれた札を見てから、風待はしばらく動かなかった。
「……風待さん?」
遥が声をかけるが、返事がない。
棚の前に立ったまま、札を見つめている。
「知ってる名前?」
「……はい」
「誰?」
風待は答えなかった。代わりに、カウンターの少女を見る。少女はまだ傘を握っている。
「名前を聞いても?」
「……白石結衣です」
「結衣さん」
風待の声はいつも通りだった。
けれど遥には分かった。この声は、無理をしている。
「その傘を預けたいんですね」
「はい」
「友達のものですか?」
「……私のです」
「そうですか」
「でも、友達が最後に持ってたんです」
結衣は傘を見下ろした。
赤いリボン。
「去年の夏、雨が降ってて」
少しずつ話し始める。
「私と友達、二人で帰ってたんです」
「はい」
「その子は傘を持ってなくて。だから、私が一緒に入れてあげた」
結衣は笑った。
「狭いから、二人とも濡れて」
風待は黙って聞いている。
「その途中で、車が……」
結衣の声が止まった。
遥は何も言わなかった。
「私は助かりました」
結衣は傘を握り直した。
「でも、友達は……」
そこから先は言葉にならなかった。
店内に雨音だけが響いている。
風待は傘を見る。
「そのリボンは?」
「友達が結んだんです」
「どうして?」
「私の傘と間違えないようにって」
結衣は少し笑った。
「『これなら絶対、結衣の傘って分かるでしょ』って」
遥は胸が苦しくなった。
「だから……」
結衣が続ける。
「この傘を見ると、あの日のことを全部思い出すんです」
「……はい」
「雨の音も、道路も、救急車の音も」
結衣は目を伏せた。
「だから捨てたい」
風待は頷いた。
「分かりました」
傘を受け取る。
その瞬間だった、赤いリボンが風もないのにふわりと揺れた。そして、結衣の顔から血の気が引いた。
「……今」
「はい?」
「リボン、動きましたよね?」
風待は答えない。遥も見た。
確かに動いた。けれど、風は吹いていない。すると。
ぽつ。
ぽつ。
傘の表面に水滴が落ち始めた。
「え?」
雨など降っていない店の中なのに、透明なビニールに、無数の水滴が浮かんでいく。
結衣が一歩後ずさる。
「……嫌」
水滴が集まって、一筋の線になる。そして赤いリボンの下に、文字が浮かんだ。
──ごめん。
結衣が息を呑んだ。
「……嘘」
さらに文字が浮かぶ。
──傘、借りちゃって。
「やめて……」
結衣の目から涙が落ちる。それを見て風待は傘を閉じた。途端に文字が消える。
「今日は、もう十分です」
「でも……!」
「今日は帰ってください」
「これ、友達が……?」
「分かりません」
風待は傘を見つめる。
「亡くなった人が残した言葉なのか、あなたの記憶が形になったのか。それは私にも分かりません」
結衣は黙った。
「ただ」
風待は続けた。
「一つだけ、確かなことがあります──あなたは、ずっと自分を責めています」
結衣の顔が強張る。
「違います」
「そうでしょうか」
「私が悪いんです」
「なぜ?」
「私が傘を持っていたから」
声が震えた。
「私がもっとちゃんと歩いてれば」
「それは、あなたの責任ではありません」
「でも!」
結衣が初めて声を荒らげた。
「私だけ生きてるんです!」
店内が静まり返る。
「なんで私だけ……」
結衣は顔を覆った。
「なんで、あの子じゃなくて私だったんだろうって……ずっと……」
風待は何も言わなかった。
遥は、胸の奥が痛くなった。それは、きっと「忘れたい」という言葉の正体だった。友達を忘れたいんじゃない。あの日の自分を許せないのだ。だから、全部を忘れてしまいたかった。
♢♢♢
結衣が帰ったあと遥はカウンターに座っていた。
「風待さん」
「はい」
「どうして、あの子に傘を返さなかったの?」
「返す必要がないからです」
「どういう意味?」
「忘れものは、必ず持ち主のところへ戻すものではありません」
風待は赤いリボンを見つめた。
「時には、持ち主が『もう持たなくていい』と分かるまで、預かっておくこともあります」
「……じゃあ、あの子はいつまで?」
「分かりません」
「またそれ」
「本当に分かりません」
風待は少し笑った。
「でも、急がなくてもいいと思います」
遥は頷いた。
その時、店の奥から猫が歩いてきた。口には、何かを咥えている。
「また何か持ってきたの?」
猫はカウンターの上に、それを落とした。
小さな紙片。それを遥が拾う。
「……これ」
古い紙だった。
そこには、風待の字で一行だけ書かれている。
──冬香を探さない。
「風待さん」
風待の顔から、笑みが消えた。
「それ……どこにあった?」
「猫が持ってきた」
風待は紙を受け取って、しばらく見つめている。
「……そうですか」
「冬香って誰?」
「……」
「さっきの札の人?」
「はい」
「妹?」
「違います」
初めて、風待が即答した。
遥は驚いた。
「じゃあ、誰?」
風待は答えなかった。
その代わり、店の扉が開いた。
からん。
結衣だった。息を切らしている。
「……すみません」
「どうしました?」
「傘を……」
結衣は店内を見回した。
「やっぱり、もう一度見せてください」
風待は黙って傘を差し出した。それを結衣が受け取り、赤いリボンを見つめる。
「さっき、帰ってから思い出したんです」
「何を?」
「事故の直前」
結衣は傘を握った。
「友達が、私に何か言ったんです」
「何を?」
「聞こえなかったんです」
「……」
「雨がうるさくて」
結衣の目に涙が浮かぶ。
「でも、今なら思い出せる気がする」
その瞬間、傘のリボンがまた揺れた。
結衣が目を閉じる。
「……『先に帰って』」
小さな声。
「そう言ってた」
風待が顔を上げる。
「私に……先に帰ってって」
結衣は震えていた。
「だったら……」
涙が頬を伝う。
「だったら、私が生き残ったのは……」
風待は静かに言った。
「あなたの友達が、そうしてほしいと思ったからかもしれません」
「……でも」
「確かめることはできません」
「はい」
「だからこそ」
風待は傘を見た。
「あなた自身が、どう受け取るかを決めていいんです」
結衣は長い間、黙っていた。
やがて赤いリボンをほどいて、傘から外す。そして、両手で大切そうに握った。
「……これだけ、持って帰ってもいいですか?」
「もちろん」
傘は店に残して、結衣は赤いリボンだけを持って帰った。
木戸が閉じる。遥はその背中を見送った。
「少し、顔が変わったね」
「ええ」
「よかった」
「はい」
風待は傘を棚に置いた。
そして、その隣に小さな札を立てる。そこには、“”『一緒に帰れなかった傘』“”と書かれていた。
遥はその札を見つめた。
「風待さん」
「はい」
「冬香って、誰なの?」
また風待は答えなかった。
ただ、店の奥を見た。そこには、誰もいない。なのに、どこからか女性の声がした。
「風待」
遥は振り返った。
風待の顔が青ざめる。
猫だけが、声のした方向を見ている。
「……今、誰か呼んだ?」
風待は答えない。
ただ一言。
「この店を閉めます」
「え?」
「今日は、もう帰ってください」
その声には、いつもの穏やかさがなかった。
そして店の奥、誰もいないはずの暗がりに、一つだけ古い赤い傘が立てかけられていた。その柄には、小さな札が結ばれている。
──“”風待冬香“”
風待はそれを見た瞬間、目を閉じた。
「……まだ、忘れさせてくれないんですね」
猫が一度だけ鳴いた。
風待は答えるように、静かに呟いた。
「分かっています」
けれどその声は、誰に向けたものなのか、遥には分からなかった。
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