忘れもの預かり処 第5話
風待が怯えている。その事実のほうが、鍵そのものより遥には気になった。
「……触らないでって言われても」
遥は鍵をつまんだまま言った。
「もう触っちゃってるけど」
「そうでしたね」
風待は困ったように笑った。けれど、いつもの笑顔とは違う。どこか無理をしている。
「それ、何の鍵?」
「分かりません」
「自分の忘れものなんでしょう?」
「そうですね」
「じゃあ、何を開ける鍵なの?」
「分かりません」
「……風待さん」
「はい」
「今日の『分かりません』は、いつもと違わない?」
風待は答えなかった。店の奥で、猫が尻尾を揺らしている。まるで二人の会話を聞いているようだった。
「その鍵を、どこで見つけたんです?」
「猫が持ってきた」
「この子が?」
「はい」
風待は猫を見る。
「たぶん、私に見つけさせたかったのでしょう──忘れていたものを」
風待は鍵に手を伸ばした。しかし、触れる寸前で止める。
「……遥さん。もし、その鍵を使うなら、私と一緒に来てください」
♢♢♢
店の奥には、見たことのない廊下があった。いつもなら棚が並んでいる場所だ。けれど今日は、壁の一部が消えている。その先に古い木造の廊下が続いていた。
「こんなの、あった?」
遥が尋ねる。
「普段はありません」
「じゃあ、なんで今はあるの?」
「鍵が見つかったからでしょう」
風待は先を歩く。猫がその後ろをついていく。
廊下の先に、一枚の扉があった。小さな鍵穴。
「ここ?」
「たぶん」
遥が鍵を差し込む。
かちり。
回った。
扉を開ける。そこにあったのは──小さな部屋だった。
六畳ほどの部屋で古い机に本棚があった。壁に一枚の写真。そして、机の上に置かれた木箱。
風待が立ち止まった。
「……ここです」
「何が?」
「私が、この店を始める前に住んでいた場所です」
「え?」
遥は写真を見る。若い男が一人、写っている。それは風待だった。
今よりずっと若い。その隣には、女性が立っている。女性は笑っている。風待も笑っている。今の風待からは想像できないほど、自然な笑顔だった。
「この人……誰?」
風待は答えなかった。代わりに、机の引き出しを開ける。
中には封筒が一通。宛名はない。
「これを忘れていたんですね」
「何が書いてあるの?」
「……まだ分かりません」
風待は封筒を開いた。中には手紙が一枚。しばらく読んでいる。そして、目を閉じた。
「風待さん?」
「……彼女は」
風待が呟く。
「私の妹です」
遥は驚いた。
「妹?」
「はい」
「でも……」
「亡くなりました」
風待の声は静かだった。
「ずっと前に」
遥は写真を見る。
二人は仲が良かったのだろう。肩を寄せて笑っている。
「何があったの?」
風待は答えない。代わりに手紙を遥に渡した。
「読んでください」
「私が?」
「はい」
遥は少し迷ってから、紙を開いた。
そこには、妹の字でこう書かれていた。
──兄さんへ。
──この手紙を読んでいるということは、私はもういないのでしょう。
遥は息を呑んだ。
──兄さんは、きっと自分を責めていると思います。
──でも、それはやめてください。
──私がいなくなったことまで、兄さんが背負う必要はありません。
そこまで読んだところで、風待が言った。
「続きを読まなくても大丈夫です」
「……うん」
遥は手紙を下ろした。
「風待さんは、これを忘れてたの?」
「はい」
「どうして?」
「忘れたかったからでしょうね」
風待は写真を見る。
「妹が死んだ後、私は何年も、自分を責め続けました」
「……」
「私があの時、電話に出ていれば」
「風待さん」
「私がもっと早く帰っていれば」
淡々とした声。けれど、その言葉の一つ一つが重かった。
「だから、妹のことを全部忘れることにしました」
「全部?」
「名前も。声も。笑い方も」
風待は少し笑った。
「ひどい兄でしょう」
「そんなこと……」
「忘れたほうが楽だったんです」
その時、猫が机の上に飛び乗った。そして、木箱を前足で押す。箱が床に落ちて蓋が開く。
中から、古い写真が何枚も散らばった。
子供の頃の風待。妹と一緒に撮った写真。夏祭り。海。雪の日。どれも笑っている。
「……なんだ」
風待が呟いた。
「こんなにあったんだ」
遥は写真を拾った。
一枚の裏に、文字が書かれている。
──兄さんは、忘れたふりをするのが下手です。
遥は風待を見る。
風待は、その文字を見つめていた。
「……そうだった」
初めて、風待の声が震えた。
「私は、忘れたんじゃない」
「うん」
「覚えていたから、苦しかったんだ」
「うん」
「だから、忘れたことにした」
猫が風待の手に頭を擦りつける。
風待はしばらく動かなかった。
やがて、その猫の頭をそっと撫でる。
「……お前は、ずっと知ってたのか」
猫は目を細めた。
♢♢♢
翌朝、風待の店に、新しい札が一枚増えていた。
棚の一番奥。そこには『妹と過ごした夏』と書かれている。
遥はそれを見ていた。
「預かるの?」
「はい」
風待は答えた。
「捨てるわけにはいきませんから」
「じゃあ、どうして店に?」
「忘れものだからです」
「でも、もう忘れなくていいんじゃない?」
風待は少し笑った。
「そうですね」
その笑顔は、昨日までより少しだけ柔らかかった。
遥は棚を見回した。
「ねえ」
「はい?」
「この店って、もしかして」
「何でしょう」
「風待さん自身の忘れものも、いっぱいあるんじゃない?」
風待は黙った。
そして。
「……そうかもしれません」
と答えた。
その時、店の扉が開いた。
からん。
一人の少女が立っていた。高校生くらいで髪は短く、制服姿。手には、古い傘を持っている。
「ここ……」
少女が言った。
「忘れものを預かってくれる店ですよね?」
風待が顔を上げる。
「はい」
「私……」
少女は傘を差し出した。
「これを、捨てたいんです」
遥は傘を見た。何の変哲もない透明なビニール傘。ただ、持ち手に赤いリボンが結ばれている。
少女は俯いた。
「これを見ると、思い出しちゃうから」
「何を?」
風待が尋ねる。
少女はしばらく黙っていた。そして、小さな声で答えた。
「友達が、死んだ日のことを」
店の中が静かになる。
猫が少女を見る。その尻尾が、ゆっくりと揺れた。
風待は傘を受け取らなかった。
「どうして、捨てたいんですか?」
「忘れたいからです」
少女は泣きそうな顔で笑った。
「でも……」
傘を握る手が震える。
「本当は、忘れたくないんです」
風待は静かに頷いた。
「では、預かりましょう」
その瞬間、店の奥で古い時計が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
そして、遥は気づいた。棚の一番奥。風待が妹の写真を置いたばかりの場所に──いつの間にか、新しい札が増えている。
そこには、まだ誰にも知られていない名前が書かれていた。
『風待 冬香』
それが誰なのか。遥はまだ知らない。けれど風待だけは、その名前を顔色を変えて見ていた。まるで、“決して思い出したくなかった名前を、思い出してしまった人間の顔で。”
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