忘れもの預かり処 第4話
八月の終わり頃。風待の店には、妙な客が増える。暑さのせいなのか、それとも、夏休みが終わるからなのか。
理由は分からない。ただ、風待は毎年この時期になると、店の軒先に古い傘を一本置く。紺色の、どこにでもありそうな傘。骨は一本曲がっていて、持ち手には小さな傷がある。
遥は以前から、それが気になっていた。
「これ、誰の傘?」
ある夕方、遥が尋ねた。
「忘れものです」
「誰の?」
「分かりません」
「また?」
「またです」
風待は平然としている。
遥は傘を眺めた。
「ずっと置いてあるよね」
「ええ」
「いつから?」
「さあ」
「……風待さん、さあって言うの便利すぎない?」
「便利ですよ」
その時、店の外で雨が降り始めた。
ぽつ。
ぽつ。
やがて、屋根を叩く音が強くなる。
遥は窓の外を見た。
「うわ……」
「傘、持ってます?」
「持ってない」
「では、どうぞ」
風待が軒先の紺色の傘を指差した。
「これ?」
「はい」
「忘れものじゃないの?」
「そうですが」
「勝手に使っていいの?」
「忘れものは、誰かの役に立つこともあります」
遥は少し迷った。
それから傘を手に取った。開くと、ぱっと紺色の布が広がった。
「……普通の傘だね」
「普通ですね」
遥が笑う。
「じゃあ、借りていく」
「返しに来てください」
「もちろん」
遙は店を出た。雨は思ったより強かった。商店街を歩いていると、前から小学生くらいの男の子が走ってきた。ランドセルを背負っている。
傘はない。
「危ない!」
男の子が水たまりに足を取られた。
遥はとっさに腕を伸ばした。
「大丈夫?」
「……はい」
男の子は立ち上がった。
制服のズボンがびしょ濡れになっている。
「傘、ないの?」
「……なくしました」
「え?」
男の子は俯いた。
「学校に忘れた?」
「違います」
「じゃあ?」
「……分かりません」
泣きそうな顔。遥は傘を少し傾けた。
「家、どこ?」
「向こう」
男の子が指差す。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「いいんですか?」
「この雨じゃ風邪ひいちゃうよ」
二人で歩き始めた。男の子はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「お姉さん」
「なに?」
「その傘……」
「うん?」
「僕のです」
遥の足が止まった。
「え?」
男の子は傘を見上げた。
「それ、僕の傘です」
「……でも」
傘には名前がない。どこにでもある紺色。
「いつなくしたの?」
「去年」
「去年?」
「お母さんが買ってくれた傘です」
男の子は傘の持ち手を見た。
「そこに傷があるでしょう?」
確かにある。
小さな三日月のような傷。
「僕が自転車に乗ってる時、転んでついたんです」
「……そうなんだ」
遥は傘を見つめた。
「じゃあ、返そうか?」
男の子は首を横に振った。
「いいです」
「どうして?」
「もう、いらないから」
その言葉が妙に引っかかった。
「でも、お母さんが買ってくれたんでしょう?」
「……お母さん、もういないから」
雨音が大きく聞こえた。
「去年、病気で死にました」
遥は何も言えなかった。
「だから、傘もいらないって思って」
男の子は俯いた。
「でも、今日、雨が降ったから」
遥は傘を握る手に力を入れた。
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
やがて家に着く。小さな一軒家だった。玄関の前で、男の子が振り返った。
「ありがとうございました」
「ううん」
「傘、返します」
「いいよ」
「でも……」
男の子は迷った。
「返したほうがいいです」
そう言って、傘を差し出す。遥が受け取った。
男の子は家の中へ入っていく。玄関の扉が閉まる。遥はしばらくその場に立っていた。傘を見る。
「……なんなの、この傘」
その時、紺色の布に、一滴だけ水が落ちた。雨ではない。遥の頬から落ちた涙だった。
♢♢♢
店に戻ると、風待がカウンターに座っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「何かありました?」
「……この傘」
遥は傘を差し出した。
「さっき、男の子に会った」
「はい」
「この傘、その子のだった」
「そうでしょうね」
「知ってたの?」
「たぶん」
「たぶんって……」
遥は傘を机に置いた。
「その子、お母さんを亡くしてた」
風待の表情が少しだけ変わった。
「そうですか」
「傘も、お母さんが買ってくれたものだった」
「……」
「なのに、返してって言わなかった」
「どうしてでしょうね」
「分からない」
遥は椅子に座った。
「でも、たぶん……傘をなくしたことにしたかったんじゃないかな」
風待は黙って聞いていた。
「傘がなくなれば、お母さんとの思い出も一緒になくなると思ったのかもしれない」
「そうかもしれません」
「でも、今日、雨が降って」
「はい」
「必要になった」
風待が傘を見る。
「忘れものって……」
遥は呟いた。
「取り戻したら、楽になるのかな」
「場合によります」
「じゃあ、あの子は?」
「まだ分かりません」
風待は静かに答えた。
「忘れたことと、忘れたかったことは、似ていますから」
その言葉が、遥の胸に残った。
その時、店の奥から、からんと小さな音がした。
猫だった。白黒の猫が、棚の間から歩いてくる。口には何かを咥えている。
「……何それ?」
猫は遥の足元に、それを落とした。
古い鍵だった。
「鍵?」
遥が拾う。
風待の顔から、笑みが消えた。
「……それは」
珍しく、声が低かった。
「どうしたの?」
遥が尋ねるが風待は答えない。ただ、鍵を見つめている。
そして、猫がもう一度鳴いた。
まるで「見つけたよ」とでも言うように。
風待はゆっくり立ち上がった。
「遥さん」
「うん?」
「その鍵には、触らないでください」
「どうして?」
「……私が、忘れていたものだからです」
店の空気が、初めて変わった。
遥は鍵を握ったまま、風待を見た。風待は、鍵から目を逸らさなかった。
その顔には──これまで一度も見たことのない、“怯えた表情”が浮かんでいた。
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