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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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忘れもの預かり処 第3話

 女性は、日記の最後のページを見つめたまま動かなかった。


 二〇二六年八月十二日


 今日の日付。


「……おかしい」


 ようやく声を絞り出す。


「何がです?」


 風待が尋ねる。


「この日記、父が死んだのは二〇〇四年なんですよ」


「はい」


「だったら、どうして今日の日付が……」


「日記だからでしょう」


「意味が分かりません」


「私にもよく分かりません」


 あまりにもあっさり言うので、遥は思わず風待を見た。


「店主なのに?」


「店主だからといって、何でも知っているわけではありません」


 風待は日記帳を覗き込む。


「ただ、一つだけ分かることがあります」


「何ですか?」


「この日記は、過去を書き残すためのものではないようです」


「じゃあ……何のため?」


「これから書かれることを待っている」


 女性の顔が強張った。


「……私に書けっていうんですか?」


「さあ」


「さあって……」


「日記は命令しませんから」


 風待は淡々としている。


「書くかどうかを決めるのは、あなたです」


 女性はしばらく黙っていた。やがて、日記帳を閉じる。


「帰ります」


「はい」


「これ、持って帰ります」


「どうぞ」


「……また来ても?」


「必要なら」


 女性は木戸へ向かった。遥も後を追う。

 店を出る直前、女性が振り返った。


「私、篠原美緒《しのはらみお》です」


 風待は小さく頭を下げた。


「私は風待です」


「知ってます」


「そうでしたね」


 美緒が初めて、少しだけ笑った。


 ♢♢♢


「すみません」


 商店街に出てから、美緒が言った。


「さっき、変なことばかり言って」


「気にしてないよ」


 遥は笑った。


「私も最初は同じだったから」


「そうなんですか?」


「うん」


 遥は青いがま口を見せた。


「私も、あの店に来た時は何が何だか分からなかった」


「……それで、何か変わりました?」


 遥は少し考えた。


「変わったというより……」


 祖母の顔を思い出す。


「思い出したかな」


「何を?」


「忘れてたこと」


 美緒は黙った。

 その手には、古い日記帳。


「私、父のことをあまり覚えてないんです」


 突然、美緒が言った。


「二十二年前に死んだから」


「……うん」


「当時、私は高校生でした」


 美緒は歩きながら続けた。


「父は、私に謝らなかったんです。最後に喧嘩したんです。くだらないことで」


 美緒は苦笑した。


「進路のことでした。父は大学に行けって言って、私は嫌だって言って」


「うん」


「そのまま父が倒れて……」


 そこで、美緒は言葉を止めた。


「だから、ずっと思ってました。父は最後まで、私に謝る気なんかなかったんだって」


 日記帳を強く抱きしめる。


「でも、あの日記には書いてあった」


 遥は黙って聞いた。


「『一度だけ謝ってほしかった』って」


 美緒は足を止めた。


「父も……私に謝ってほしかったのかな」


 遥には答えられなかった。

 それは、亡くなった本人にしか分からない。


「だからこそ、怖いんです」


 美緒は日記を見た。


「もし本当に父が書いたものなら……」


「うん」


「私が知らない父が、まだどこかにいることになるから」


 その時、日記帳の中から、紙が一枚落ちた。


 ひらり。


 遥が拾い上げる。


「これ……」


 古い写真だった。

 若い男性と、小さな女の子が海辺で撮った写真。

 女の子は美緒だった。


「……父さん」


 美緒が呟く。

 写真の裏には、文字があった。


 ──美緒、十歳。

 ──海を怖がって泣いた。


「覚えてる」


 美緒が言った。


「……覚えてる?」


「この日」


 美緒は写真を見つめた。


「父が私を海に連れて行ったんです」


「怖かったの?」


「うん。でも……」


 美緒が笑った。


「父も泳げなかったんですよ」


「え?」


「私が怖がったから、一緒に海に入ってくれたけど、実は父も怖かった」


 二人とも笑った。


 美緒は写真を胸元に当てた。


「忘れてた」


 小さく呟く。


「そんなことまで、忘れてた」


 ♢♢♢


 その夜、美緒は自宅の机に日記帳を置いた。何時間も眺めた。だが開くことができない。いや、開きたくない。怖かった。父のことを思い出すのが怖かった。嫌いだった記憶まで戻ってきたら、自分がずっと信じていたものまで壊れてしまったら、だから、閉じたままにしておこうと思った。


 その時、日記帳が勝手に開いた。


 最後のページ。


 二〇二六年八月十二日


 その下に、一行増えている。


 ──今日は、娘に会った。


「……え?」


 美緒は息を止めた。


 文字がもう一つ浮かび上がる。


 ──大きくなったな。


 美緒の目から、涙が落ちた。


「……馬鹿」


 声が震える。


「今さら……」


 さらに一行。


 ──謝りたいことがある。


 美緒は日記帳を閉じようとした。けれど、手が止まった。そして初めて、自分からペンを取った。

 しばらく迷ったあと、震える文字で、一行だけ書いた。


 ──私も、謝りたい。


 書いた瞬間。


 日記帳のページが静かに閉じた。

 それから二度と開かなかった。


 ♢♢♢


「……閉じたんですか?」


 翌日、風待の店で美緒は頷いた。


「はい」


「何も起こらない?」


「はい」


「それなら、もう大丈夫です」


「どうして?」


「忘れものが見つかったからです」


 美緒は少し考えた。


「私、父との仲直りができたわけじゃないと思います」


「ええ」


「謝ってもらったわけでもない」


「そうですね」


「でも……」


 美緒は笑った。


「もう、父の最後の顔だけを覚えている必要はないんだって思えました」


 風待は黙って頷いた。

 美緒は日記帳を差し出す。


「これは?」


「持って帰ってください」


「でも、もう開かないですよ」


「それでも」


 風待は言った。


「それは、あなたのお父さんが最後に残したものですから」


 美緒は日記帳を抱きしめた。


「……ありがとうございます」


 木戸が閉じる。遥はその背中を見送った。


「風待さん」


「はい」


「日記、結局なんだったんでしょう」


「さあ」


「また『さあ』?」


「本当に分からないんですよ」


 風待は苦笑した。


「でも、きっと日記が美緒さんを救ったわけではありません」


「じゃあ誰が?」


「美緒さん自身です」


 その言葉に、遥は少しだけ納得した。

 店の隅では、白黒の猫が丸くなって眠っている。


「ねえ、あの猫」


「はい?」


「名前、ないんですか?」


「ありません」


「じゃあ、呼ぶ時どうするんです?」


「呼びません」


「え?」


「向こうから来ますから」


 猫が片目を開けた。

 風待を見る。それから遥を見る。


「……本当に?」


 遥が尋ねる。

 猫は、ふいっと顔を背けた。


「なんか、嫌われてない?」


「気にしなくていいですよ」


 風待が笑う。


「猫は、嫌いな人には尻尾すら向けませんから」


「それ、慰めになってないよ」


 遥は笑った。その笑い声を聞いて、風待も笑った。

 店の外では、夏の蝉が鳴いていた。


 そしてその日、遥はまだ知らなかった。風待の店に置かれている「忘れもの」の中に、


『風待自身が忘れてしまったものが一つだけあることを』


 そして、その忘れものを最初に見つけるのが──あの猫であることを。

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