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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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忘れもの預かり処 第2話

 その日記帳は、雨に濡れていた。けれど、表紙に水滴は残っていない。

 革張りの濃い茶色。角は擦り切れていて、何度も開かれた跡がある。


「……誰のだろう」


 商店街の端で、若い女性が日記帳を抱えて立っていた。年齢は二十代半ばくらい。薄いベージュのコートを着て、髪は肩まで伸ばしていた。左手にはコンビニの袋を提げている。


 遥は少し離れた場所から、その様子を見ていた。そして、声をかけた。


「落とし物ですか?」


「え?」


 女性が振り返る。


「あ……はい。たぶん」


「交番に届けます?」


「それが……」


 女性は日記帳を見つめた。


「さっきから、ずっとここにあるんです」


「ここに?」


「はい」


 女性は商店街の路地を指した。


「誰もいないところに落ちていて。拾ったら、なぜか……」


「なぜか?」


「捨てられなくなってしまって」


 遥には、その気持ちが少し分かった。

 風待の店を知ってから、妙なものに出会うことが増えた。

 正確には、今までなら気にも留めなかったものが、妙に目につくようになった。


「名前、書いてないんですか?」


「ありません」


 女性が日記帳を裏返す。名前も住所もない。表紙にも、裏表紙にも、何もない。


「中を見てみたら?」


「それが……」


 女性は困った顔をした。


「開かないんです」


「鍵でも?」


「違います」


 日記帳を開こうとする。


 ぱら。


 ……開いた。


「ほら」


「え?」


「今、開きましたよ」


「え?」


 女性が目を丸くする。


「さっきまで、どうやっても開かなかったんです」


 遥は日記帳を覗き込んだ。


 最初のページには日付が書かれている。


 二〇〇四年六月十二日


 その下に、一行。


 ──今日、父が死んだ。


 遥は息を呑んだ。


「……すみません」


 慌てて顔を上げる。


「勝手に見てしまって」


「いえ……」


 女性も困惑していた。


「これ、どうしたらいいんでしょう」


 その瞬間、路地の奥から猫が現れた。

 白い身体に黒い尻尾。


「あ……」


 遥は思わず声を漏らした。

 猫は女性の足元まで歩いていくと、日記帳を見上げた。


「知ってる猫ですか?」


「……まあ」


 遥は苦笑した。


「少しだけ」


 猫はくるりと踵を返す。そして、路地の奥へ歩き始めた。


「ついてこいってことかも」


 女性が言った。


「……え?」


「猫って、そういう顔してません?」


 遥は少し笑った。


「確かに」


 二人と一匹は、路地を進んだ。

 すると。


「……あ」


 女性が立ち止まる。目の前に、あの木戸があった。


「ここ……」


「知ってます?」


「いえ」


 女性は首を振った。


「でも、なんだか……知っている気がします」


 遥は木戸に手をかけた。


 からん。


 鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 風待がいた。まるで二人が来ることを知っていたように。


「こんにちは」


 遥が頭を下げる。


「今日はお客様を連れてきました」


「そうですか」


 風待は女性を見た。


「日記ですね」


「……はい」


「では、お預かりしましょう」


 女性が日記帳を差し出す。風待は受け取らない。


「それは、あなたのものです」


「でも、私のじゃありません」


「今はそうでしょう」


「……?」


 風待は日記帳を見る。


「持ち主が見つかるまで、あなたが預かってください」


「どうして私が?」


「拾ったからです」


 あまりにも簡単な答えだった。女性は納得できない顔をした。


「でも、これ……人の日記ですよね」


「そうですね」


「勝手に読んだら、駄目ですよね」


「ええ」


「じゃあ、どうすれば……」


「読みたくないなら、読まなければいい」


「読みたい場合は?」


 風待は少しだけ笑った。


「その時は、読む理由を考えてください」


 女性は黙った。日記帳を抱きしめる。


「……私、こういうの嫌いなんです」


「何がです?」


「過去を振り返ること」


 女性は視線を落とした。


「昔のことなんて、思い出しても仕方ないから」


 風待は何も言わない。代わりに、猫が店の奥へ歩いていく。女性はその背中を見つめた。


「……あの猫」


「はい?」


「さっきから、私のことを見ているんです」


「そうでしょうね」


「なんで?」


「気になるからでしょう。あなたが、日記を拾ったことが」


 女性は眉をひそめた。


「猫が?」


「この店では、猫のほうが人間より事情を知っていることがあります」


「……変な店」


「よく言われます」


 風待は平然としている。遥は思わず吹き出した。

 女性も、ほんの少しだけ笑った。


 その瞬間だった。日記帳が、ぱらりと勝手に開いた。


 二〇〇四年六月十二日


 最初のページ。

 そこにあった文章が、ゆっくりと変わっていく。古いインクが滲むように文字が消え、新しい文字が浮かび上がった。


 ──父が死んだ。


 その下に、新しい一文。


 ──でも、私はまだ父に怒っている。


「……え?」


 女性の顔から笑みが消えた。遥も言葉を失った。

 風待だけが、静かに日記帳を見ている。


 そして、さらに一行が浮かんだ。


 ──あの人に、一度だけ謝ってほしかった。


 女性は日記帳を閉じた。


「……もう、いいです」


 声が震えている。


「これ、捨ててもいいですか?」


 風待は答えなかった。代わりに、猫が女性の足元へ歩いていく。

 そして、その黒い尻尾を、女性の手にそっと巻きつけた。

 女性は動けなくなった。


「……どうして」


 小さく呟く。


「どうして私なんですか」


 誰に向けた言葉なのか。遥には分からなかった。

 風待はしばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言った。


「その日記を書いた人を、知っていますか?」


「……知りません」


「そうですか」


「でも……」


 女性は日記帳を見つめる。


「この字……」


 そこで言葉が止まった。

 遥は気づいた。女性の顔が、青ざめている。


「……知ってる」


「え?」


「この字……」


 女性は震える指で、最初のページを指した。


「これ、私の父の字です」


 店内の空気が、変わった。風待が初めて驚いた顔をした。


「……なるほど」


 猫が鳴く。


 ちりん。


 店の鈴が、誰も触れていないのに鳴った。そして日記帳の最後のページが、ひとりでに開いた。

 そこにはまだ、何も書かれていない。

 ただ中央に『二〇二六年八月十二日』という今日の日付だけが記されていた。

 女性は、その日付を見つめたまま動かなかった。

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