忘れもの預かり処 第1話
その店には、看板がない。
古い商店街の一番奥。もう何年も前にシャッターを閉めた八百屋と、昼間でも薄暗い喫茶店の間に、小さな木戸だけがある。
その木戸を見つけられる人は少ない。
もっと正確に言えば──必要になった人しか見つけられない。
♢♢♢
「ここ……かな」
雨上がりの夕方、三十六歳の真壁遥は、スマートフォンの地図と何度も見比べながら立ち止まった。
地図には何も表示されない。住所もない。ただ、一枚だけ送られてきた写真。木戸。白い暖簾。そして、忘れられないものを、お預かりします。という一文。
「怪しい……」
口に出してみると、余計に怪しかった。
三日前、祖母が亡くなった。九十歳だった。大往生と言われればその通りだ。泣くほどではないと思っていた。なのに、葬儀が終わった翌日から、胸の中に小さな石が落ちたような重さが残った。
理由は一つ。最後まで見つからなかったのだ。祖母が大切にしていた、「青いがま口」が。祖母は亡くなる一週間前まで「あれだけはなくしたらあかん」と繰り返していた。
中身は誰も知らない。現金でも通帳でもないらしい。
家中を探した。施設にも問い合わせた。それでも見つからなかった。
そんな時、従妹がぽつりと言った。
「昔、おばあちゃんが変な店の話をしてたよ」忘れものを探してくれる店。
そんな馬鹿げた話を信じるほど疲れていたのだろう。
遥は木戸を開けた。鈴が一つ鳴る。
からん。
店の中は古本屋のようでもあり、骨董店のようでもあった。棚いっぱいに、木箱や瓶や封筒が並んでいる。全部、札が付いている。
『泣けなかった卒業式』
『言えなかった好き』
『返せなかった五百円』
『母の最後の電話』
品物ではない。文字ばかりだった。
「いらっしゃい」
声がした。奥から現れたのは、三十歳くらいにも五十歳くらいにも見える男だった。白いシャツに黒い前掛け。
髪は少し長く、眠そうな目をしている。
「忘れものですか」
「ええ……まあ」
「それは物ですか」
「青いがま口です」
「なるほど」
男は帳面を開いた。
「では確認します」
さらさらと筆を走らせる。
「探しているのは、がま口ですか」
「はい」
「違います」
「え?」
男は顔を上げた。
「あなたが探しているのは、がま口ではありません」
遥は少し腹が立った。
「でも私は──」
「いいえ」
男は静かに笑った。
「この店は、物を探す店ではありません」
「では何を?」
「忘れものを預かる店です」
意味が分からない。
「お客様は皆さん、『失くした物』を探しに来ます」
男は棚を見回した。
「でも、本当に失くしているのは、たいてい別のものなんです」
その時だった。店の隅で、小さく鈴が鳴った。
ちりん。
振り向くと、一匹の猫が座っていた。真っ白なのに、尻尾だけが墨を流したように黒い。
不思議なのは、その猫が遥を見る目だった。
初対面とは思えない。
まるで──「やっと来たね」そう言われた気がした。
猫は一度だけ鳴くと、棚の奥へ歩き出す。
男はため息をついた。
「今日は珍しい」
「何がですか?」
「あの子が、お客様を案内するそうです」
男は帳面を閉じ、静かに立ち上がる。
「真壁さん」
「……名前、言いました?」
「言ってませんよ。でもわかるんです」
男は少しだけ困ったように笑った。
「だから、この店は少しだけ不思議なんですよ」
猫は振り返ることなく、暗い廊下の奥へ消えていく。
その先には、さっきまでなかったはずの、もう一枚の扉が現れていた。
扉には、小さな真鍮の札が掛かっている。
そこには、たった一行だけ書かれていた。『開けると、一つだけ思い出します。』
遥は、知らず知らずのうちに息を止めていた。
扉の前まで来ると、猫が立ち止まった。白い身体に、墨を落としたような黒い尻尾。
猫は振り返り、遥を見上げた。
「……入れってこと?」
返事の代わりに、尻尾が一度だけ揺れた。
遥は扉に手をかけた。
冷たい。木製のはずなのに、妙にひやりとしている。
「待ってください」
後ろから店主の声がした。
「一つだけ、約束があります」
「何ですか?」
「思い出したものを、必ず取り戻さなければならないわけではありません」
「……?」
「人は、ときどき『思い出すこと』と『取り戻すこと』を同じだと思ってしまいます。でも、この二つは違います」
店主はそれ以上言わなかった。
遥は少し考えたあと、扉を開いた。
そこは、祖母の家だった。
「……え?」
六畳ほどの和室。畳の匂い。綺麗に張られた障子。古い柱時計。そして窓際に置かれた、見慣れた座椅子。
間違いない。子供の頃、何度も遊びに行った祖母の家だ。
「なんで……」
遥は一歩、部屋へ入った。
すると、「遥ちゃん」と声がした。
心臓が跳ねた。振り返るが誰もいない。けれど、声は確かに祖母だった。
「遥ちゃん、こっちおいで」
記憶の中の声。まだ祖母が元気だった頃の声。
遥は唇を噛んだ。
こんなものを見せられるとは思わなかった。
「……ずるいよ」
目が熱くなる。すると、部屋の隅に何かが落ちた。
ころん。
青い布の小さな塊。遥は駆け寄った。
「これ……!」
青いがま口。
探していたものだ。
手に取ろうとした瞬間──「遥ちゃん」また声がした。
「それ、こっちに持ってきて」
遥は動きを止めた。
祖母の声。けれど、何かがおかしい。
記憶の中では、祖母はいつもこう言っていた。
「遥ちゃん、こっちおいで」
なのに今は、「それ、こっちに持ってきて」だった。
遥はがま口を見つめた。
「……違う」
何が違うのかは分からない。でも、これは祖母の記憶ではない。
その時だった、背後から猫の鳴き声がした。
「にゃあ」
振り返ると、あの猫が座っている。
猫はがま口を見て、そして遥を見る。
「……これ、あなたが見せてるの?」
猫は答えない。ただ、がま口を前足で軽く叩いた。
ぱちん。
蓋が開いた。中に入っていたのは、小さな紙切れだった。
遥は震える手で取り出した。紙には、祖母の字で一行だけ書かれていた。
──遥ちゃんへ。
それだけ。
「……私に?」
紙の裏を見る。
何もない。遥は何度も眺めた。すると、記憶が突然よみがえった。
十歳の夏。祖母の家の縁側で蝉の声がしていた。泣いている遥。学校で友達と喧嘩したのだ。祖母は何も聞かなかった。ただ隣に座って、冷たい麦茶を渡した。
しばらくして遥が、『私、悪くないもん』と言った。
祖母は笑った。『そうかもしれんなあ』
そして、こう続けた。『でもな、悪くないことと、寂しくないことは別なんじょ』遥は目を閉じた。
忘れていた。ずっと忘れていた。青いがま口を探していたはずなのに。
自分が本当に忘れていたのは──祖母と最後に話した日のことだった。
「おかえりなさい」
店に戻ると、店主がそう言った。遥はがま口を握っていた。
「これ……本物です」
「そうでしょうね」
「どうして?」
「この店にあるものは、全部本物ですよ」
店主は笑った。
「ただし、持ち主が探していたものとは限りません」
遥はがま口を開いた。紙はまだそこにある。
「これ、もらっていいんですか?」
「もちろん」
「でも……祖母は、なんで最後までこれを?」
店主は少し黙った。
「もしかしたら、渡すタイミングを待っていたのかもしれません」
「亡くなる前に渡せばよかったのに」
「人は、そう簡単にはいかないものです」
その言葉に、遥はふと顔を上げた。
「あなたは……何者なんですか?」
「店主です」
「そういうことじゃなくて」
「では、忘れものを預かる人です」
「……名前は?」
「風待です」
「下の名前は?」
「ありません」
「そんなわけ──」
「ありますよ」
風待は穏やかに笑った。
「この店では、名前を一つ置いていく人もいますから」
遥には意味が分からなかった。でも、もう聞かなかった。
帰ろうと木戸を開ける。外は夕暮れだった。商店街は、来た時と何も変わっていない。
ただ一つだけ、遥の手には、青いがま口がある。
「ありがとうございました」
振り返ると風待は店の奥に立っていた。その足元には、あの猫。猫が一度だけ鳴いた。
「……また来てもいいですか?」
「必要になったら」
風待はそう答えた。
木戸が閉じる。遥はしばらくその場に立っていた。そして、がま口の中の紙をもう一度開いた。裏側には、さっきまでなかった文字が増えていた。
震えるような祖母の字。
そこには、
──遥ちゃん。
──ちゃんと笑って暮らしなさい。
と書かれていた。
遥は泣いた。商店街の真ん中で、子供みたいに泣いた。でも、不思議と悲しくはなかった。涙が止まった頃には、空が少しだけ明るく見えた。
その日から三日後。遥は会社帰りに、商店街へ寄った。けれど、あの木戸は見つからなかった。
何度探しても、写真と同じ場所を歩いても、見つからない。
「……まあ、そうだよね」
遥は少し笑った。きっと、必要がなくなったのだ。そう思って帰ろうとした。
その時、どこからか、
ちりん。
鈴の音が聞こえた。
遥は振り返った。商店街のずっと先。見知らぬ女性が、一人で立っている。
その足元には──一冊の古い日記帳が落ちていた。女性は日記帳を拾い上げると、途方に暮れたように呟いた。
「……これ、誰のだろう」
遥は知らなかった。その女性が次に風待の店を訪れることも。そしてその日記帳が、風待自身の過去につながることも。
ただ、その時の遥は、「困ってるなら、手伝いましょうか」と声をかけていた。
風待の店に関わる人間は、こうして少しずつ増えていく。
忘れものを探すためではなく。
誰かの忘れものを見つけることで、自分自身の何かを見つけるために。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




