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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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遠い灯、近い影 最終話

 律は、遥の前でしばらく立ち尽くしていた。

 涙が頬を伝い、顎の先から落ちていく。

 十年分の痛みが、ようやく形になって外へ溢れ出したようだった。


「律……」


 遥はそっと肩に手を置いた。

 その手は、十年前と同じ温度だった。


「俺は……」


 律はかすれた声で言った。


「俺は……ずっと……自分が何かを間違えたんじゃないかって……あの夜、俺が……樹を……」


「違う」


 遥は強く言った。


「律、お前は何もしてない。樹は……自分の苦しみを、お前に背負わせたくなかっただけだ」


 律は唇を噛んだ。

 胸の奥が、痛みと安堵でぐしゃぐしゃになっていく。


「でも……十年だぞ。十年も……俺は……」


「分かってる」


 遥の声は震えていた。


「俺だって……十年、何もできなかった。樹の家族も、町の大人たちも……誰も、何も言えなかった」


 遥は拳を握りしめた。


「だから……律。お前だけが苦しんでたわけじゃない。俺も……樹も……ずっと、あの夜に縛られてた」


 律は目を閉じた。

 涙がまた溢れた。


 風が吹き、波が砕ける音が響く。

 防波堤の上で、二人はしばらく言葉を失っていた。


 やがて、遥が静かに言った。


「律。……チエコさんの日記、読んだんだろ?」


「ああ」


「なら……もう一つ、見ておいた方がいいものがある」


「……何?」


「チエコさんの部屋の、引き出しの奥。日記とは別に……手紙があるはずだ」


 律は顔を上げた。


「手紙……?」


「お前宛てだ。チエコさんは……全部知ってた。でも、言えなかった。だから……手紙に残したんだと思う」


 律は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……祖母は……俺に何を……」


「それは……律が読むべきだ」


 遥はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。


「行こう。今日は……もう十分だ」


 律はうなずいた。

 足元が少しふらついたが、遥が支えてくれた。


 二人は防波堤を離れ、夜の道を歩き出した。


 喫茶店“灯”に戻ると、店内は静かだった。

 律は奥の部屋へ向かい、箪笥の引き出しを開けた。


 衣類の下に、小さな封筒があった。

 白い封筒に、祖母の字でこう書かれている。


 ──律へ。


 律は震える手で封筒を取り出した。


 遥は部屋の入口で静かに見守っていた。


 律は深く息を吸い、封を切った。


 中には、一枚の便箋が入っていた。


 祖母の筆跡。

 優しく、しかし迷いのない文字。


 律はゆっくりと読み始めた。


 ──律へ。

  あなたは悪くない。

  あの夜のことを、私は知っています。

  でも、真実は誰かを救い、誰かを傷つけます。

  だから私は、あなたが自分で選ぶ日を待っていました。


 文字が滲んで見えた。

 律は便箋を握りしめ、肩を震わせた。


 遥がそっと近づき、律の背中に手を置いた。


「律……」


 律は声にならない声で答えた。


「……俺……やっと……」


 言葉は続かなかった。

 ただ、涙だけが静かに落ちていった。


 翌朝、律は早く目が覚めた。

 喫茶店“灯”の奥の部屋は、薄い朝の光に満たされている。

 祖母の手紙は、机の上に置いたままだった。


 ──律へ。

  あなたは悪くない。


 その文字が、光の中で静かに浮かび上がっている。


 律はしばらく手紙を見つめていた。

 胸の奥に沈んでいた重い石が、少しずつ形を変えていくような感覚があった。


 痛みは消えない。

 しかし、その痛みを抱えたままでも、前へ進める気がした。


 午前中、律は喫茶店の片付けを始めた。

 カウンターの上に積もった埃を拭き、棚に残されたカップを一つずつ洗う。

 祖母が毎朝していたことを、律はゆっくりと辿った。


 窓を開けると、潮風が店内に流れ込んだ。

 カーテンが揺れ、光が床に落ちる。


 ──祖母は、この光の中で生きていたんだ。


 律は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 店の奥にある古いレコードプレーヤーを見つけ、

 埃を払って針を落とすと、かすれたピアノの音が流れ始めた。


 静かで、優しい音だった。


 昼過ぎ、律は店の前に立ち、深く息を吸った。

 潮の匂いが濃い。

 空は晴れているのに、風はどこか冷たい。


 そのとき、背後から声がした。


「律」


 振り返ると、遥が立っていた。

 作業着の袖をまくり、額に汗を浮かべている。


「片付け、終わったのか」


「だいたいね」


「……そうか」


 遥は店の中を見回し、少しだけ微笑んだ。


「チエコさん、喜ぶだろうな」


「どうだろう。怒られるかもしれないよ。“もっと丁寧にやりなさい”って」


 遥は小さく笑った。

 その笑いは、十年前のものと同じだった。


「律」


「ん?」


「……行くのか」


 律はうなずいた。


「うん。戻らなきゃいけない場所がある。でも……また来るよ」


 遥は視線を落とし、そしてゆっくりと顔を上げた。


「……待ってる」


 その言葉は、風よりも静かで、しかし確かに律の胸に届いた。


 夕方、律は駅へ向かう道を歩いていた。

 空は薄い橙色に染まり、海がその色を映している。


 十年前、この道を歩いたときは、胸の奥に重い影しかなかった。


 しかし今は──影の中に、かすかな光が混じっている。


 痛みは消えない。

 後悔も消えない。

 でも、それを抱えたままでも歩ける。


 律はそう思った。


 電車がホームに滑り込む。

 律は乗り込み、窓際の席に座った。


 発車のベルが鳴る。

 電車がゆっくりと動き出す。


 町が遠ざかっていく。

 海が、空が、家々が、少しずつ小さくなる。


 そのとき、スマホが震えた。


 画面には、短いメッセージ。


 ──またな、律。


 律は小さく笑った。

 胸の奥が、静かに温かくなった。


 電車は海沿いを走り、

 夕陽が窓に反射して、律の顔を柔らかく照らした。


 十年分の痛みを抱えたまま、しかし確かに前へ進む光の中で──


 律は目を閉じた。

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