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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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遠い灯、近い影 第5話

「黒川……重信?」


 律の声は、風にかき消されそうなほど弱かった。


「ああ」


 遥はうなずいた。

 その横顔は、十年前よりもずっと大人びているのに、どこか痛々しい。


「黒川さんは……あの夜、ここにいた。偶然じゃない。散歩の途中だったらしい」


 律の胸がざわついた。


「じゃあ……見てたんだ。全部」


「全部じゃない。でも、樹が落ちる瞬間は……見てた」


 風が強く吹き、二人の間に冷たい空気が流れた。


「じゃあ、なんで……なんで言わなかったんだよ」


 律の声は震えていた。


「俺が……疑われたまま、十年も……」


 遥は唇を噛んだ。


「黒川さんは……言えなかったんだ」


「どうしてだよ」


「樹の父さんが……黒川家に借りがあった。金じゃない。仕事でもない。もっと……町の“体裁”に関わることだ」


 律は息を呑んだ。


「黒川さんが言えば……樹の家が壊れる。町の空気も壊れる。だから……黙った」


「そんな理由で……?」


「律。この町は、誰か一人の真実より、全体の“平穏”を優先するんだ」


 遥の声は、怒りとも悲しみともつかない震えを帯びていた。


「じゃあ……俺の十年は?」


 律は防波堤の縁に手をついた。

 指先が冷たい。


「俺は……何もしてないのに……なんで、誰も……」


「律」


 遥が近づいた。


「俺だって……言えなかったんだ」


 律は顔を上げた。


「……遥、お前まで?」


「俺が言えば……樹の家が壊れる。樹の母さんは、あの時もう限界だった。父さんも……町の人間関係の中で、ぎりぎりだった」


 遥は拳を握りしめた。


「俺が真実を言えば……誰かが壊れる。だから……黙った」


 律の胸に、重い石が落ちたような感覚が走った。


「じゃあ……俺は?」


「律……お前は、町を出た。出ていった人間のために、町は動かない。残った人間を守る方が……優先される」


 遥の声は、ひどく静かだった。


「……俺は、逃げたのか?」


 律の声は、かすれていた。


「違う。逃げたんじゃない。追い出されたんだよ、空気に」


 遥は律の肩に手を置いた。


「俺だって……律を守りたかった。でも……守れなかった。十年前の俺には……どうすることもできなかった」


 律は目を閉じた。

 胸の奥が熱くなり、視界が滲む。


「……ごめん」


「謝るな。悪いのは、お前じゃない」


 遥の声は、風よりも静かだった。


「律」


 遥が、ゆっくりと言った。


「樹は……最後にこう言ったんだ」


 律は息を止めた。


「“律には言うなよ。あいつ、優しいから。俺のこと、全部背負おうとするから”」


 胸の奥が、音を立てて崩れた。


 十年分の痛みが、波のように押し寄せる。


 律は膝をついた。

 防波堤の冷たいコンクリートが、掌に触れる。


「樹……」


 声にならない声が漏れた。

 遥はそっと律の背中に手を置いた。


「律。お前は悪くない。樹も……そう思ってた」


 律は顔を伏せたまま、震える息を吐いた。


 波の音が、静かに、しかし確かに二人を包んでいた。


 翌朝、律はほとんど眠れないまま、喫茶店“灯”のカウンターに座っていた。

 窓の外では、曇り空が低く垂れ込めている。

 風は弱いのに、空気は重かった。


 ──黒川重信。


 その名前が、胸の奥で何度も反響していた。


 十年前の夜。

 樹が落ちた瞬間。

 掴まれた手首の感触。

 そして、誰も何も言わなかった十年間。


 律は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 ──行くしかない。


 そう思った。


 黒川家の門の前に立つと、空気が変わった。

 庭は広く、手入れが行き届いている。

 しかし、家そのものはどこか重苦しい影をまとっていた。


 律はインターホンを押した。


 しばらくして、扉が開いた。

 黒川重信が姿を現した。


 背筋の伸びた、無駄のない動き。

 目は細く、表情は読めない。


「……高山くんか」


 その声は、驚きも、歓迎も、拒絶も含んでいなかった。

 ただ、冷たく静かだった。


「話があります」


「そうだろうな。入れ」


 黒川は背を向け、家の中へ歩き出した。

 律はその背中を見つめ、ゆっくりと後に続いた。


 応接間は広く、静かだった。

 壁には古い写真が飾られ、重厚な家具が並んでいる。


 黒川はソファに腰を下ろし、律に向き合った。


「……十年前のことを聞きに来たんだろう」


 律はうなずいた。


「見ていたんですよね。あの夜」


「見ていた」


 黒川はあっさりと言った。


「では、なぜ……」


「言わなかったのか、か」


 黒川は目を細めた。


「言えば、町が壊れると思ったからだ」


 律の胸がざわついた。


「町が……?」


「樹の父親は、町の人間関係の中で、ぎりぎりのところにいた。あの家が崩れれば、周囲にも影響が出る。“誰が悪いか”より、“誰を守るべきか”が優先される」


 律は拳を握った。


「じゃあ……俺は?」


「お前は町を出た。出ていった人間のために、町は動かない」


 その言葉は、刃物のように鋭かった。


「俺は……何もしていないのに」


「知っている」


 黒川は淡々と言った。


「お前が悪くないことくらい、分かっていた」


「じゃあ、なぜ……!」


 律の声が震えた。


「なぜ黙っていたんですか。俺は……十年間……」


「十年だ」


 黒川は律の言葉を遮った。


「十年黙っていたのは、私だけではない。町全体だ。遥も、樹の家族も、周囲の大人たちも……皆、沈黙を選んだ」


 律は息を呑んだ。


「なぜ……俺だけが……」


「お前が“外”に出たからだ。外に出た者は、町の論理から外れる。守られない。それだけのことだ」


 律の胸に、重い石が落ちたような感覚が走った。


「……ふざけるな」


 律は立ち上がった。

 視界が揺れる。


「俺の十年は……なんだったんだ。俺は……ただ……」


「高山くん」


 黒川は静かに言った。


「真実は、誰かを救い、誰かを傷つける。私は……誰を救うべきかを選んだだけだ」


「その結果……俺が傷ついた」


「そうだ」


 黒川は目を逸らさなかった。


「だが、私は後悔していない」


 律の胸が熱くなり、視界が滲んだ。


「……あなたは……」


 言葉が続かなかった。


 黒川は立ち上がり、律に背を向けた。


「帰りなさい。これ以上は……誰のためにもならない」


 律はしばらく動けなかった。

 足が震えていた。


 そして、ゆっくりと家を出た。


 外に出ると、風が強く吹いた。

 空は曇り、光は弱い。


 律は歩きながら、胸の奥に沈んだ痛みを抱えたまま、喫茶店“灯”へ向かった。


 途中、遥が道の先で待っていた。


「律……」


 律は立ち止まった。

 遥の顔が揺れて見える。


「黒川さんのところに……行ったのか」


「……ああ」


「どうだった」


 律は答えられなかった。

 喉が詰まり、声が出ない。


 遥はゆっくりと近づき、律の肩に手を置いた。


「律。お前だけの十年じゃない。俺も……樹も……ずっと、あの夜に縛られてた」


 律は目を閉じた。

 涙がこぼれた。


 十年分の痛みが、静かに溢れ出した。

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