忘れもの預かり処 第7話
翌朝。風待の店は、いつもより静かだった。
遥が木戸を開けると、風待はカウンターの向こうで新聞を読んでいた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日のことなんだけど」
「はい」
「結局、冬香って誰?」
新聞をめくる音が止まった。
風待は紙面から顔を上げない。
「……昨日も聞きましたね」
「昨日は答えてくれなかったから」
「今日も答えないかもしれません」
「なんで?」
「話したくないからです」
あまりにも正直だった。
遥は少し驚いた。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
風待は再び新聞に目を落とす。店の奥では、猫が丸くなっている。昨日見つかった赤い傘は、どこにもなかった。
「傘は?」
「返しました」
「え?」
「昨日の夜、持ち主が来ました」
「結衣さん?」
「いいえ」
遥は首を傾げた。
「誰に?」
「雨に」
「……は?」
風待は新聞を畳んだ。
「傘というものは、雨の日に使われるためにありますから」
「それ、答えになってる?」
「なっていませんね」
風待は笑った。
その笑顔が、少しだけいつものものに戻っている。
♢♢♢
昼過ぎ。店の木戸が開いた。入ってきたのは、七十歳くらいの男性だった。
薄いグレーの帽子。古い革靴。右手に杖。
「こんにちは」
風待が声をかける。
「……ここは」
男性が店内を見回した。
「忘れものを預かる店ですか?」
「はい」
「それなら、お願いしたいものがある」
男性は胸ポケットから、小さな封筒を取り出した。
封筒は古い。黄ばんでいる。
「これを預かってほしい」
「中身は?」
「手紙です」
「誰宛てですか?」
男性は少し迷ってから言った。
「妻です」
遥が顔を上げた。
「奥様は?」
「三年前に亡くなりました」
「……」
「渡せなかった手紙なんです」
男性は封筒をカウンターに置いた。
「死ぬ前に書いた」
「なぜ渡さなかったんです?」
「喧嘩していたから」
風待は封筒を見る。
「三年も?」
「はい」
男性は笑った。
「意地を張っていたんでしょうな」
「それを、どうして今?」
「昨日、孫に言われましてね」
「何と?」
「『おじいちゃん、まだおばあちゃんに謝ってないの?』と」
男性は苦笑した。
「子供は容赦がない」
「そうですね」
「それで思い出したんです」
男性は封筒を撫でた。
「この手紙のことを」
風待は少し考えた。
「預かりましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、預かるだけです」
男性は頷いた。
「それで十分です」
風待が封筒を受け取る。その瞬間、店の奥で猫が顔を上げた。そして、風待を見る。
男性が帰ったあと、遥は尋ねた。
「手紙、読まないの?」
「読みません」
「どうして?」
「宛先が決まっているものですから」
「でも、もう亡くなってるよ」
「それでもです」
風待は封筒を棚に置いた。
札を一枚。
そこには、“”『渡せなかった、ごめん』“”と書いた。
「この店に来る人って、みんな何かを後悔してるね」
「そうですね」
「風待さんも?」
風待は少し笑った。
「私も人間ですから」
その時、店の外から声がした。
「風待!」
遥が振り返る。
木戸の向こうに誰かいる。
風待の顔が変わった。
「……今日は休みです」
声が硬い。
遥が木戸を開けようとすると、風待が止めた。
「開けないでください」
「誰?」
「……昔の知り合いです」
外から、もう一度声がする。
「いるんだろ!」
男の声だった。
風待は黙っている。
やがて、足音が遠ざかっていく。店内に静けさが戻った。
「……誰だったの?」
風待は答えない。
ただ、棚の奥にある札を見る。
──風待冬香。
「遥さん」
「うん」
「この店には、知らなくていいこともあります」
「でも」
「私は、あなたに迷惑をかけたくない」
その言葉に、遥は少し腹が立った。
「それ、私が決めることじゃない?」
風待が顔を上げる。
「……」
「私、もうこの店に何度も来てるんだけど」
「はい」
「忘れものを預かるだけの店じゃないって、なんとなく分かってきた」
遥は棚を見る。
「ここに来る人たちって、誰かに話せなかったことを話しに来てるんじゃない?」
「……」
「だったら、風待さんだけ話さないのはずるいよ」
風待はしばらく黙っていた。
やがて、椅子を一つ引いた。
「座りますか」
「うん」
「少し長い話になります」
「聞く」
風待は窓の外を見た。夏の終わりの風が、暖簾を揺らしている。
「冬香は、私の姉です」
「……お姉さん?」
「はい」
遥は息を止めた。
「妹じゃないの?」
「違います」
「じゃあ、どうして妹って……」
「昔、そういうことにしたんです」
「誰が?」
風待は答えなかった。
代わりに、棚から一枚の写真を取り出した。そこには三人の子供が写っている。一番左が、幼い風待。真ん中に女の子。右端に、もう一人。
遥は写真を見た。
「……三人?」
「私と冬香と、もう一人」
「誰?」
風待は写真を裏返した。
裏には、子供の字で書かれていた。
──三人で、ずっと一緒。
「この子は?」
風待は写真を見つめる。
「私たちの弟です」
「……」
「名前は、春樹」
遥は何も言えなかった。
風待は静かに続ける。
「そして二十二年前の夏」
風が止まった。
「冬香と春樹が、いなくなりました」
「……亡くなったの?」
「冬香は」
風待はそこで言葉を切った。
「見つかりませんでした」
遥の背筋が冷たくなる。
「春樹は?」
「見つかりました」
「どこに?」
風待は答えた。
「この店です」
遥は意味が分からなかった。
「……この店?」
「正確には」
風待が静かに言う。
「この店になる前の、この場所で」
そして、初めて風待は遥の目を見た。
「春樹が最後に見た人間は、私です」
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