表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/36

遠い灯、近い影 第2話

 翌朝、律は喫茶店“灯”の前に立っていた。

 シャッターの錆びた縁を指でなぞると、粉のような赤茶色が指先に付いた。

 十年前、祖母が毎朝ここでシャッターを上げていた音が、耳の奥で微かに蘇る。


 ──ガラガラ、と。

 あの音は、律にとって一日の始まりだった。


 今は、ただの錆びた金属の塊だ。


 律は鍵を回し、シャッターを少しだけ持ち上げた。

 中から冷たい空気が流れ出る。

 昨日の夜、片付けもせずに眠ってしまった店内は、まだ薄暗い。


 そのとき、背後から声がした。


「……律?」


 律は振り返った。


 造船所の作業着を着た男が、朝の光の中に立っていた。

 南田遥だった。


 十年ぶりに見るその顔は、記憶よりも少し大人びていて、

 しかし、目の奥にある影は変わっていなかった。


「……遥」


 律は、喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。


「帰ってきてたのか」


 遥がゆっくりと歩み寄る。

 律はうなずいた。


「……昨日、葬儀で」


「そうか。……チエコさん、急だったな」


 遥は視線を落とした。

 その横顔に、十年分の疲れのようなものが滲んでいる。


「律、お前……痩せたな」


「そう見える?」


「見える。……無理してんだろ」


 律は苦笑した。

 遥のこういうところは、昔から変わらない。


「まあ、いろいろあって」


「……そうか」


 短い沈黙が落ちた。

 その沈黙は、十年という時間よりも重かった。


 ふと、遥の視線が律の左手首に落ちた。

 律は反射的に袖を引き下ろした。


 その仕草に、遥の表情がわずかに揺れる。


「……まだ、気にしてるのか」


「気にしてないよ」


 律は即答した。

 しかし、その声は自分でも驚くほど硬かった。


 遥は何も言わなかった。

 ただ、風の音だけが二人の間を通り抜けていく。


「……律」


「ん?」


「帰ってきたんだな」


 その言葉は、ただの挨拶ではなかった。

 十年前のあの夜から続く、長い長い距離の確認のようだった。


「……まあ、しばらくは」


「しばらく?」


「遺品整理が終わったら、戻るよ。仕事もあるし」


 遥の表情が、ほんの一瞬だけ曇った。

 しかしすぐに、いつもの無表情に戻る。


「……そうか」


 その“そうか”には、言葉にできない何かが含まれていた。


「じゃあ、また」


 遥は短く言って、造船所の方へ歩き出した。

 律はその背中を見送った。


 十年前と同じ歩き方。

 少し猫背で、肩に力が入っている。

 あの頃、樹がよくからかっていた。


 ──遥ってさ、歩き方だけで真面目って分かるよな。


 樹の声が、ふいに耳の奥で蘇る。

 律は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 遥の姿が見えなくなると、律は喫茶店の中へ戻った。

 カウンターに腰を下ろし、深く息を吐く。


 ──なんで、あんな言い方をしたんだ。


 “すぐ戻るよ”

 自分でも、なぜそんな言葉を選んだのか分からない。


 遥の表情が曇った理由も、分かっているようで分からない。


 十年という時間は、二人の間に積もった沈黙を、

 簡単には溶かしてくれないらしい。


 律は日記帳を開いた。

 昨日読んだページをもう一度見つめる。


 ──見ていた人がいる。


 その一文が、胸の奥に重く沈む。


 祖母は、何を知っていたのか。

 誰が、あの夜を見ていたのか。


 そして──なぜ、誰も何も言わなかったのか。


 律は日記を閉じ、額に手を当てた。


 外では、造船所の機械音が遠くで響いている。

 その音が、律の胸のざわつきをさらに強くした。


 律は立ち上がり、店の外へ出た。

 朝の光が、まだ湿ったアスファルトに反射している。


 ──この町は、何も変わっていないようで、全部変わってしまった。


 律は歩き出した。

 向かう先は決めていない。

 ただ、足が勝手に動いた。


 十年前の自分が、よく歩いた道へ。


 その先に、何が待っているのか分からないまま。


 喫茶店を出てしばらく歩くと、朝の光が少しずつ強くなってきた。

 律は、どこへ向かうでもなく、ただ足の向くままに歩いた。


 十年前、遥と樹と三人でよく通った道だ。

 夏休みの帰り道、コンビニでアイスを買って、海沿いのベンチで食べた。

 その記憶が、湿った風とともに胸の奥で揺れる。


 ──あの頃は、何も疑っていなかった。


 自分たちの未来も、関係も、町の空気も。

 全部、変わらないものだと思っていた。


 商店街の角を曲がると、古い八百屋の前で立ち止まった。

 店主の老人が、律に気づいて目を細める。


「……おや、律くんかい」


「お久しぶりです」


「帰ってきたんだな。チエコさんのこと、残念だった」


「はい……」


 老人はしばらく律を見つめ、それから声を潜めた。


「……大変だったな、いろいろ」


 律の胸がざわつく。


「いろいろ、って……」


「いや、まあ……町の連中は、忘れたようで忘れてないからな」


 老人はそれ以上言わず、店の奥へ戻っていった。


 律はしばらくその場に立ち尽くした。

 胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。


 歩き出すと、今度は向こうから二人組の主婦が歩いてきた。

 律を見ると、ひそひそと声を潜める。


「……あの子、律くんじゃない?」


「そうよ。帰ってきたんだって」


「でも、あの事故……」


 律は聞こえないふりをした。

 しかし、言葉の断片は耳に残る。


 ──あの事故。

 ──律くん。

 ──十年前。


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 海沿いの道に出ると、風が強くなった。

 潮の匂いが濃く、肌にまとわりつく。


 律は防波堤の方へ向かうのを避け、別の道を選んだ。

 しかし、どの道を歩いても、十年前の記憶がついてくる。


 遥の横顔。

 樹の笑い声。

 そして──あの夜の、湿った風。


 ふと、背後から声がした。


「律くん?」


 振り返ると、遥の母が買い物袋を提げて立っていた。

 律は軽く頭を下げる。


「お久しぶりです」


「まあ……元気そうでよかったわ」


 そう言いながらも、彼女の目はどこか探るようだった。


「遥とは……会った?」


「はい。さっき」


「そう……」


 遥の母は、少しだけ視線を逸らした。


「……あの子、律くんのこと、ずっと……」


 言いかけて、口を閉じた。


「すみません、急いでるの。またね」


 彼女は足早に去っていった。


 律はその背中を見送りながら、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。


 喫茶店に戻る頃には、昼の光が強くなっていた。

 律はカウンターに腰を下ろし、深く息を吐いた。


 ──やっぱり、この町は俺を“あの夜”から解放してくれない。


 遥の視線。

 主婦たちの噂。

 八百屋の老人の言葉。

 遥の母の曖昧な沈黙。


 全部が、十年前の事故へと繋がっている。


 律は額に手を当てた。


 ──俺は、本当に何もしていなかったのか。


 その問いが、また胸の奥で重く沈んだ。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ