遠い灯、近い影 第2話
翌朝、律は喫茶店“灯”の前に立っていた。
シャッターの錆びた縁を指でなぞると、粉のような赤茶色が指先に付いた。
十年前、祖母が毎朝ここでシャッターを上げていた音が、耳の奥で微かに蘇る。
──ガラガラ、と。
あの音は、律にとって一日の始まりだった。
今は、ただの錆びた金属の塊だ。
律は鍵を回し、シャッターを少しだけ持ち上げた。
中から冷たい空気が流れ出る。
昨日の夜、片付けもせずに眠ってしまった店内は、まだ薄暗い。
そのとき、背後から声がした。
「……律?」
律は振り返った。
造船所の作業着を着た男が、朝の光の中に立っていた。
南田遥だった。
十年ぶりに見るその顔は、記憶よりも少し大人びていて、
しかし、目の奥にある影は変わっていなかった。
「……遥」
律は、喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。
「帰ってきてたのか」
遥がゆっくりと歩み寄る。
律はうなずいた。
「……昨日、葬儀で」
「そうか。……チエコさん、急だったな」
遥は視線を落とした。
その横顔に、十年分の疲れのようなものが滲んでいる。
「律、お前……痩せたな」
「そう見える?」
「見える。……無理してんだろ」
律は苦笑した。
遥のこういうところは、昔から変わらない。
「まあ、いろいろあって」
「……そうか」
短い沈黙が落ちた。
その沈黙は、十年という時間よりも重かった。
ふと、遥の視線が律の左手首に落ちた。
律は反射的に袖を引き下ろした。
その仕草に、遥の表情がわずかに揺れる。
「……まだ、気にしてるのか」
「気にしてないよ」
律は即答した。
しかし、その声は自分でも驚くほど硬かった。
遥は何も言わなかった。
ただ、風の音だけが二人の間を通り抜けていく。
「……律」
「ん?」
「帰ってきたんだな」
その言葉は、ただの挨拶ではなかった。
十年前のあの夜から続く、長い長い距離の確認のようだった。
「……まあ、しばらくは」
「しばらく?」
「遺品整理が終わったら、戻るよ。仕事もあるし」
遥の表情が、ほんの一瞬だけ曇った。
しかしすぐに、いつもの無表情に戻る。
「……そうか」
その“そうか”には、言葉にできない何かが含まれていた。
「じゃあ、また」
遥は短く言って、造船所の方へ歩き出した。
律はその背中を見送った。
十年前と同じ歩き方。
少し猫背で、肩に力が入っている。
あの頃、樹がよくからかっていた。
──遥ってさ、歩き方だけで真面目って分かるよな。
樹の声が、ふいに耳の奥で蘇る。
律は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
遥の姿が見えなくなると、律は喫茶店の中へ戻った。
カウンターに腰を下ろし、深く息を吐く。
──なんで、あんな言い方をしたんだ。
“すぐ戻るよ”
自分でも、なぜそんな言葉を選んだのか分からない。
遥の表情が曇った理由も、分かっているようで分からない。
十年という時間は、二人の間に積もった沈黙を、
簡単には溶かしてくれないらしい。
律は日記帳を開いた。
昨日読んだページをもう一度見つめる。
──見ていた人がいる。
その一文が、胸の奥に重く沈む。
祖母は、何を知っていたのか。
誰が、あの夜を見ていたのか。
そして──なぜ、誰も何も言わなかったのか。
律は日記を閉じ、額に手を当てた。
外では、造船所の機械音が遠くで響いている。
その音が、律の胸のざわつきをさらに強くした。
律は立ち上がり、店の外へ出た。
朝の光が、まだ湿ったアスファルトに反射している。
──この町は、何も変わっていないようで、全部変わってしまった。
律は歩き出した。
向かう先は決めていない。
ただ、足が勝手に動いた。
十年前の自分が、よく歩いた道へ。
その先に、何が待っているのか分からないまま。
喫茶店を出てしばらく歩くと、朝の光が少しずつ強くなってきた。
律は、どこへ向かうでもなく、ただ足の向くままに歩いた。
十年前、遥と樹と三人でよく通った道だ。
夏休みの帰り道、コンビニでアイスを買って、海沿いのベンチで食べた。
その記憶が、湿った風とともに胸の奥で揺れる。
──あの頃は、何も疑っていなかった。
自分たちの未来も、関係も、町の空気も。
全部、変わらないものだと思っていた。
商店街の角を曲がると、古い八百屋の前で立ち止まった。
店主の老人が、律に気づいて目を細める。
「……おや、律くんかい」
「お久しぶりです」
「帰ってきたんだな。チエコさんのこと、残念だった」
「はい……」
老人はしばらく律を見つめ、それから声を潜めた。
「……大変だったな、いろいろ」
律の胸がざわつく。
「いろいろ、って……」
「いや、まあ……町の連中は、忘れたようで忘れてないからな」
老人はそれ以上言わず、店の奥へ戻っていった。
律はしばらくその場に立ち尽くした。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
歩き出すと、今度は向こうから二人組の主婦が歩いてきた。
律を見ると、ひそひそと声を潜める。
「……あの子、律くんじゃない?」
「そうよ。帰ってきたんだって」
「でも、あの事故……」
律は聞こえないふりをした。
しかし、言葉の断片は耳に残る。
──あの事故。
──律くん。
──十年前。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
海沿いの道に出ると、風が強くなった。
潮の匂いが濃く、肌にまとわりつく。
律は防波堤の方へ向かうのを避け、別の道を選んだ。
しかし、どの道を歩いても、十年前の記憶がついてくる。
遥の横顔。
樹の笑い声。
そして──あの夜の、湿った風。
ふと、背後から声がした。
「律くん?」
振り返ると、遥の母が買い物袋を提げて立っていた。
律は軽く頭を下げる。
「お久しぶりです」
「まあ……元気そうでよかったわ」
そう言いながらも、彼女の目はどこか探るようだった。
「遥とは……会った?」
「はい。さっき」
「そう……」
遥の母は、少しだけ視線を逸らした。
「……あの子、律くんのこと、ずっと……」
言いかけて、口を閉じた。
「すみません、急いでるの。またね」
彼女は足早に去っていった。
律はその背中を見送りながら、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
喫茶店に戻る頃には、昼の光が強くなっていた。
律はカウンターに腰を下ろし、深く息を吐いた。
──やっぱり、この町は俺を“あの夜”から解放してくれない。
遥の視線。
主婦たちの噂。
八百屋の老人の言葉。
遥の母の曖昧な沈黙。
全部が、十年前の事故へと繋がっている。
律は額に手を当てた。
──俺は、本当に何もしていなかったのか。
その問いが、また胸の奥で重く沈んだ。
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