遠い灯、近い影 第1話
電車の窓に映った自分の顔を、律はしばらく見つめていた。
頬のこけ方も、目の下の影も、十年前にこの町を出たときよりずっと深い。窓の外では、海沿いの線路がゆるやかに曲がり、灰色の波が車体に寄り添うように揺れている。
潮の匂いが、わずかに車内へ入り込んだ気がした。
胸の奥がざわつく。懐かしさではない。もっと、重く沈むものだ。
スマホの画面が震えた。
未読の仕事連絡が三件。律は画面を伏せ、膝の上に置いた。
──今は見たくない。
そう思う自分に、また小さな嫌悪が生まれる。
車内アナウンスが鳴った。
「次は、江野島──」
その響きが、十年前の夏の夜を呼び起こす。
防波堤。湿った風。樹の手が、自分の手首を掴んだ感触。
律は目を閉じた。
駅に降り立つと、潮の匂いがはっきりと鼻を刺した。
六月の湿気がまとわりつき、シャツの背中にじっとりと汗が滲む。
改札を抜けると、見覚えのある商店街が続いていた。
しかし、記憶よりもシャッターが増えている。
かつて祖母の喫茶店へ向かう途中、律がよく立ち寄った文具店も、パン屋も、看板だけを残して閉じていた。
──十年という時間は、町の色をこんなにも変えるのか。
律は歩きながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
増子家の前には、黒い喪服の人々が集まっていた。
律が姿を見せると、何人かが振り返る。
「律くん……帰ってきたんだね」
遠い親戚の女性が声をかけてきた。
その声は優しいのに、どこか探るような響きが混じっている。
「……はい。遅くなりました」
律は頭を下げた。
玄関をくぐると、線香の匂いが濃く漂っていた。
奥の座敷には、祖母・チエコの遺影が置かれている。
柔らかく笑う写真の中の祖母は、十年前と変わらない。
律は膝をつき、手を合わせた。
──ごめん。間に合わなかった。
胸の奥で言葉が崩れた。
「律くん、大きくなったねえ」
背後から声がした。
振り返ると、祖母の古い友人である近所の女性が立っていた。
しかし、その目は笑っていなかった。
「都会で……大変だったんでしょう?」
「まあ、少し……」
「そう。……でも、帰ってきてくれてよかったわ」
“よかったわ”の後に続くはずの言葉──「事故のこともあるしね」その気配を、律は敏感に感じ取った。
喉の奥がひりつく。
葬儀が終わり、親族が帰っていくと、家の中は急に静かになった。
律は喫茶店“灯”の鍵を手に取り、ゆっくりと歩き出した。
店のシャッターは閉じられ、看板の文字だけが薄く残っている。
鍵を差し込み、重いシャッターを持ち上げると、埃の匂いが一気に流れ出た。
カウンターには、祖母の字で書かれたメモが残っていた。
──明日の豆を買うこと。
その何気ない一文が、律の胸を締めつけた。
祖母は、翌日も店を開けるつもりだったのだ。
奥の部屋に入ると、古い箪笥がひっそりと置かれていた。
引き出しを開けると、衣類や古い写真がぎっしり詰まっている。
その一番下の段に、小さな鍵がかかった箱があった。
律は鍵を回し、蓋を開けた。
中には、茶色い革表紙の日記帳が一冊だけ入っていた。
手に取ると、紙の乾いた匂いがした。
律は最初のページを開いた。
──あの夜のことは、まだ書けない。
その一文を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。
祖母は、事故のことを知っていたのか。
なぜ、何も言わなかったのか。
律の手が震えた。
店を出ると、夜風が冷たかった。
律は海辺へ向かって歩き出した。
波の音が近づくにつれ、胸の奥がざわつく。
防波堤の先に、誰かが立っているように見えた。
律は足を止めた。
しかし、近づいてみると、そこには誰もいなかった。
ただ、風だけが吹き抜けていく。
十年前の記憶が、突然よみがえる。
樹の手が、自分の手首を掴んだ瞬間。
その力の強さ。
その温度。
──俺は、本当に何もしていないのか。
律は、暗い海を見つめたまま、しばらく動けなかった。
夜の海風に吹かれながら、律はしばらく防波堤に立ち尽くしていた。
波が砕けるたび、十年前の記憶が細かい破片になって胸の奥へ刺さる。
──あの夜、樹は何を考えていたんだろう。
──俺は、何を見落としていた?
問いは、波の音にかき消されるだけだった。
やがて、律はゆっくりと歩き出した。
喫茶店“灯”へ戻る道は、街灯がまばらで、影が長く伸びている。
足音がやけに大きく響いた。
店に戻ると、室内は昼間よりも冷えていた。
律はカウンターの椅子に腰を下ろし、日記帳をもう一度開いた。
ページをめくると、祖母の筆跡が整然と並んでいる。
日々の仕入れの記録、常連客の名前、季節の移ろい。
そのどれもが、律の知らない祖母の生活だった。
そして、数ページ先に、再び“あの夜”に触れる記述があった。
──あの子たちの声が、風に乗って聞こえた。
──私は、ただ祈ることしかできなかった。
律は息を呑んだ。
祖母は、事故の夜、近くにいたのか。
それとも、誰かから聞いたのか。
ページの端に、薄く鉛筆で書かれた文字があった。
──見ていた人がいる。
律の心臓が跳ねた。
“見ていた人”とは誰なのか。
なぜ祖母は、その名前を伏せたままにしたのか。
日記の続きは、突然、日常の記録に戻っていた。
まるで、意図的に話題を逸らしたように。
律は日記を閉じ、深く息を吐いた。
喉の奥が乾いている。
冷蔵庫を開けると、祖母が買い置きしていた麦茶のボトルが一本だけ残っていた。
コップに注ぎ、一口飲む。
冷たさが喉を通り、胸の奥に落ちていく。
──祖母は、何を知っていたんだ。
問いは、麦茶の味とともに沈んでいく。
店の奥の部屋に布団を敷き、律は横になった。
天井の木目が、ぼんやりと揺れて見える。
目を閉じると、また十年前の光景が浮かんだ。
夏の夜。
湿った風。
樹の笑い声。
遥の横顔。
そして──
防波堤の縁に立つ樹の背中。
“全部流れたらいいのに”
あの呟きが、波の音と混ざって蘇る。
律は目を開けた。
心臓が早く打っている。
──俺は、あの時、何をしていた?
答えは出ない。
ただ、胸の奥に重い石が沈んでいくような感覚だけが残った。
外から、風に揺れる看板の金具がカタカタと鳴る音がした。
律は布団の中で身を縮めた。
この町の夜は、こんなにも静かだっただろうか。
十年前の自分は、その静けさに気づいていただろうか。
目を閉じると、祖母の声が遠くで聞こえた気がした。
──律。
──あんたは悪くないよ。
それは記憶なのか、願望なのか分からなかった。
律は、眠れないまま、夜の深さに沈んでいった。
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