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キャラ文芸短編集  作者: 倉木元貴


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遠い灯、近い影 第3話

 昼下がりの光は、どこか白く濁っていた。

 律は喫茶店“灯”の前に立ち、深く息を吸った。

 潮の匂いに混じって、鉄と油の匂いが微かに漂ってくる。造船所の方角だ。


 ──歩こう。


 そう思った。

 何かを探すわけではない。ただ、じっとしていると胸の奥がざわつく。


 律は商店街へ向かって歩き出した。


 商店街のアーケードは、十年前よりもさらに静かだった。

 シャッターの閉まった店が増え、開いている店の方が少ない。

 風が吹くたび、古い看板がカタカタと揺れる。


 律は歩きながら、視線を感じていた。

 正面からではない。

 横から、背後から、遠くから。


 ──あの子、律くんじゃない?

 ──帰ってきたんだって。

 ──でも、あの事故……。


 声は聞こえないふりをしても、耳に残る。


 律は歩く速度を少しだけ速めた。


 アーケードを抜けると、海へ続く道に出た。

 潮風が強く、シャツの裾が揺れる。


 その道の途中に、原花家がある。

 律は足を止めた。


 庭の雑草は伸び放題で、かつて樹が育てていた小さな花壇は、土だけが残っていた。

 窓は閉ざされ、カーテンは色褪せている。


 律は門の前に立ち、しばらく動けなかった。


 ──樹。


 名前を心の中で呼ぶと、胸の奥がきゅっと縮む。


 十年前、樹はよくこの庭でギターを弾いていた。

 下手だったが、楽しそうだった。

 遥がからかい、律が笑い、樹が照れた。


 その光景が、風に揺れる雑草の向こうにぼんやりと重なる。


 律は目を閉じた。


 ──俺は、あの夜、何を見ていた?


 答えは出ない。


 原花家を離れ、海沿いの道へ出る。

 波の音が近い。

 潮の匂いが濃く、肌にまとわりつく。


 律は防波堤へ向かう道を避け、別の道を選んだ。

 しかし、どの道を歩いても、十年前の記憶がついてくる。


 樹の笑い声。

 遥の横顔。

 そして──あの夜の湿った風。


 ふと、背後から声がした。


「律くん?」


 振り返ると、遥の母が買い物袋を提げて立っていた。

 律は軽く頭を下げる。


「お久しぶりです」


「まあ……元気そうでよかったわ」


 そう言いながらも、彼女の目はどこか探るようだった。


「遥とは……会った?」


「はい。さっき」


「そう……」


 遥の母は、少しだけ視線を逸らした。


「……あの子、律くんのこと、ずっと……」


 言いかけて、口を閉じた。


「すみません、急いでるの。またね」


 彼女は足早に去っていった。


 律はその背中を見送りながら、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。


 海沿いのベンチに腰を下ろすと、風が強く吹いた。

 波が砕ける音が、胸の奥のざわつきをさらに掻き立てる。


 ──この町は、俺を“あの夜”から解放してくれない。


 律は空を見上げた。

 雲が低く垂れ込め、光が薄い。


 十年前の夏も、こんな空だった気がする。


 樹が笑っていた。

 遥が少し照れていた。

 律は、ただその二人を見ていた。


 ──あの頃の俺は、何も分かっていなかった。


 律は目を閉じた。


 胸の奥に、重い石が沈んでいくような感覚があった。


 喫茶店に戻る頃には、夕方の光が街を赤く染めていた。

 律はカウンターに腰を下ろし、深く息を吐いた。


 ──俺は、何を探しているんだろう。


 答えはまだ見えない。

 ただ、胸の奥に沈んだ“あの夜”の影だけが、少しずつ輪郭を取り戻しつつあった。


 夕方の光が沈みきる前、律は喫茶店“灯”の奥の部屋に戻った。

 日記帳は、机の上に置いたままになっている。

 革表紙の茶色は、薄暗い部屋の中で静かに沈んだ色をしていた。


 律は椅子に腰を下ろし、日記を開いた。

 昨日読んだページを、もう一度ゆっくりと目で追う。


 ──見ていた人がいる。


 その一文が、紙の上で黒く沈んでいる。

 祖母の筆跡は、震えてはいない。

 むしろ、いつもより丁寧に書かれているように見えた。


 律は指先で文字をなぞった。


 “見ていた人”とは誰なのか。

 なぜ祖母は名前を書かなかったのか。

 そして──なぜ、誰も何も言わなかったのか。


 胸の奥がざわつく。


 ページをめくると、日記は突然、日常の記録に戻っていた。

 仕入れた豆の種類、常連客の名前、天気のこと。

 そのどれもが、律の知らない祖母の生活だった。


 しかし、あるページの端に、薄く鉛筆で書かれた文字があった。


 ──〇〇さんは言った。律は悪くないと。


 律は息を呑んだ。


 “〇〇さん”の部分は、鉛筆で強く塗りつぶされている。

 名前は読めない。

 しかし、塗りつぶされた跡は、何度も何度も重ねられたように深かった。


 ──祖母は、誰かを守ろうとしたのか。


 律は日記を閉じ、額に手を当てた。


 外に出ると、夜の気配が濃くなっていた。

 街灯がぽつぽつと灯り、海風が冷たく吹き抜ける。


 律は歩きながら、日記の“伏せ字”のことを考えていた。


 ──〇〇さん。

 ──律は悪くないと言った人。


 その人物は、事故の夜、何を見たのか。

 なぜ、十年間沈黙していたのか。


 考えれば考えるほど、胸の奥が重くなる。


 造船所の前を通りかかったとき、遥の姿が見えた。

 作業を終えたのか、制服の袖をまくり、額の汗を拭っている。


 律は声をかけようとしたが、足が止まった。

 遥の横顔は、どこか険しい。

 誰かと電話をしているようだった。


「……いや、俺は……あの時……」


 風に流されて、言葉の断片だけが聞こえる。


「……律には……まだ……」


 律は胸がざわついた。

 遥がこちらに気づく前に、足を引いた。


 ──今、話すべきじゃない。


 そう思った。

 遥の声には、何かを抱え込んでいる気配があった。


 律は造船所を離れ、町の外れへ向かった。

 そこには、黒川家の大きな屋敷がある。


 祖母の喫茶店の常連だった男──黒川重信。

 町の有力者で、樹の父とも関わりが深かった人物。


 律は屋敷の前に立ち、門の向こうを見つめた。


 庭は広く、手入れが行き届いている。

 しかし、家そのものはどこか重苦しい雰囲気をまとっていた。


 そのとき、門の奥から視線を感じた。


 黒川重信が、玄関先に立っていた。

 律を見ている。

 表情は読めない。

 ただ、冷たい。


 律は思わず背筋を伸ばした。


 黒川は、ゆっくりと視線を逸らし、家の中へ消えた。


 律はしばらくその場に立ち尽くした。


 ──あの人が、“見ていた人”なのか?


 胸の奥がざわつく。

 しかし、確信は持てない。


 喫茶店に戻ると、夜はすっかり深くなっていた。

 律はカウンターに座り、日記帳を開いた。


 祖母の筆跡が、静かにそこにある。


 ──律は悪くない。


 その言葉だけが、胸の奥で淡く光っていた。


 しかし、その光はまだ弱い。

 真実は、まだ霧の向こう側にある。


 律は日記を閉じ、深く息を吐いた。


 ──俺は、何を知るべきなんだ。


 その問いだけが、夜の静けさの中に残った。

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