まほろば便利屋 第10話
「ぎゃぁぁぁぁ!?」
真琴は反射的に飛び退いた。
窓を突き破って現れた黒い腕は、廊下いっぱいに広がるほど巨大だった。ぬるりと濡れて、しかも先端に目玉みたいなのがついていた。
「情報量が多い!」
ひよりは懐中電灯を向ける。
「うわ、本当に目ある」
「冷静に観察するな!」
黒い腕は、美波へ向かって伸びていた。
美波は青ざめて後ずさる。
「……っ」
「逃げるぞ!」
真琴は美波の手を掴んだ。
三人は廊下を全力疾走する。
ズル……ズル……。
後ろから、巨大な腕が追ってくる音がした。
「ホラー映画すぎる!」
「右!」
ひよりが叫ぶ。
真琴は咄嗟に角を曲がった。
直後。
ドォン!!
黒い腕が壁へ突き刺さり、木片が飛び散った。
「旅館壊れるぅぅ!」
一階から蒼士の声が響く。
「だから壊すなって言っただろー!」
「誰のせいだと思ってる!?」
真琴は叫び返した。
その時、美波が急に立ち止まる。
「待って」
「え?」
「こっち」
美波は廊下の奥へ走り出した。
三人は追いかける。たどり着いたのは、一番端の客室だった。
『月乃間』
古い表札。
美波は襖を開ける。中は埃っぽい和室だった。
だが。
「あ」
真琴は気づく。
机の上に、古い麦わら帽子が置いてある。それを見た瞬間、美波の表情が変わった。
「……思い出した」
「何を?」
「ここ、私の部屋だった」
静かな声だった。
「家族で泊まりに来て……海行って……」
美波は帽子を抱きしめる。
「お母さんと、お父さんがいて……」
記憶が戻り始めている。
その時だった。
ズズズズ……。
部屋の外で、黒い腕がうごめく音。襖の隙間から、青白い目が覗いていた。
「うわ近っ!?」
ひよりが襖を閉める。
だが。
ミシミシミシ。
腕が襖を押し破ろうとしていた。
「どうすんだこれ!」
真琴が焦る。
その時、美波がぽつりと言った。
「……あの子、寂しいんだ」
「は?」
真琴は耳を疑った。
美波は窓の外を見る。荒れる海。その奥に巨大な影。
「ずっと海の底で、一人ぼっちだった」
「いや同情するサイズじゃないぞ!?」
「でも、だから人を連れていこうとする」
蒼士が言っていた。怪異にも性格がある、と。
美波は帽子を抱えたまま、震える声で続ける。
「私も、一人だったから」
真琴は言葉を失う。
十年間。旅館に取り残されて、誰にも見つけてもらえなくて、きっと、美波も同じくらい寂しかったのだ。
ミシィ!!
襖が裂けて、黒い腕が部屋へ入り込んでくる。
「うわ来た!」
その瞬間、階段の方から蒼士が飛び込んできた。
「伏せろ!」
札が飛ぶ。
バチィッ!!
青白い火花が弾け、黒い腕が大きくのけぞった。
低い悲鳴みたいな音が響く。
「所長!」
「無茶苦茶暴れるじゃねえかアイツ!」
「そっちも十分無茶苦茶だよ!」
蒼士は美波を見る。
「思い出したか?」
「……うん」
「なら帰れる」
美波は目を見開く。
「帰るって……どこに?」
蒼士は少しだけ笑った。
「お前を待ってる人のところだよ」
その言葉と同時に、旅館の外で、遠く鐘の音が鳴った。
──カァン……。
波の音が、少しだけ静かになる。
──カァン……。
鐘の音は、海風に乗って静かに響いていた。
荒れていた波が、少しずつ穏やかになっていき、黒い腕の動きも止まっていた。
まるで何かを聞いているみたいに。
「……静かになった」
ひよりが呟く。
蒼士は美波へ手を差し出した。
「行くか」
「どこへ?」
「海」
「いや怖い怖い怖い!」
真琴が全力で止める。
さっきまで巨大怪異が暴れていた場所である。だが蒼士は真面目な顔だった。
「多分、終わらせないといけない」
美波は少し考えて、こくりと頷いた。
「……うん」
十分後。
四人は旅館裏の浜辺へ出ていた。
夜の海。月明かり。そして沖合に浮かぶ、巨大な黒い影。だが最初ほど恐ろしい感じはしない。どこか寂しそうだった。
美波は波打ち際まで歩いていく。
「ねえ」
小さな声。
「もういいよ」
海風が吹き、黒い影が揺れる。
「私、帰る場所思い出したから」
真琴は息を呑む。
美波は笑っていた。少し泣きそうな顔で。
「だから、もう誰かを連れていかなくていい」
やがて、海の怪異は、ゆっくり沈み始めた。巨大な身体が海へ溶けていく。
最後に、青白い目だけが浮かぶ。
その目は──少しだけ優しかった気がした。
そして、波が静かになる。
夜の海には、月明かりだけが残った。
「……終わった?」
真琴が恐る恐る聞く。
「多分な」
蒼士が答える。
美波は空を見上げていた。
「……あ」
「どうした?」
「迎え、来た」
その瞬間、ふわり、と風が吹く。
真琴には見えなかった。だが美波の視線の先に、誰かがいるのが分かった。
美波は嬉しそうに笑う。
「お母さん」
ひよりが静かに目を伏せた。
美波は振り返る。
「みんな、ありがとう」
「おう」
真琴は自然に答えていた。
「今度はちゃんと帰れよ」
「うん!」
その笑顔は、最初に見た時よりずっと明るかった。
そして、美波の身体が、淡い光に包まれる。
夏の蛍みたいに、優しい光。
「ばいばい!」
最後に手を振って。美波は夜空へ溶けるように消えた。
静かな波の音だけが残る。しばらく誰も喋らなかった。
やがて真琴がぽつりと言う。
「……何か、すげえ夏休みって感じだったな」
「まだ夏休み前だけどね」
ひよりがツッコむ。
蒼士はポケットへ手を突っ込んだ。
「帰るか」
「疲れた……」
真琴はその場へ座り込む。
「俺もう一週間くらい寝たい」
「帰りラーメン食う?」
「行く」
即答だった。
その時、旅館の方から加奈が走ってくる。
「九条さん!」
「どうしました?」
「……電気が点いたんです」
「え?」
振り返る。
閉鎖寸前だった古い旅館。その窓に、暖かい灯りがともっていた。
まるで誰かが、『おかえり』と言っているみたいに。
加奈は泣きそうな顔で笑った。
「もう少しだけ、この旅館続けてみます」
蒼士は小さく頷く。
「そうしてください」
帰り道。海沿いの道路を車が走る。窓の外には、静かな夜の海。
真琴はぼんやり思った。
この町には、不思議なものがいる。寂しい怪異も、迷子の幽霊も。でも、ちゃんと誰かが手を伸ばせば、帰れるのかもしれない。
その時、助手席の蒼士のスマホが鳴った。
「ん?」
画面を見る。
蒼士の顔が少しだけ険しくなった。
「……へえ」
「何だ?」
真琴が聞く。
蒼士はスマホを閉じた。
「山の展望台で、“星が落ちた”らしい」
「は?」
「次の依頼だ」
真琴は天井を見上げた。
──この便利屋、絶対普通の仕事来ないな。
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