家庭での食事
「まあまあお掛けになって。お客さんだなんて久しぶりだから、碌なもてなしも出来ませんけど」
その素朴な顔立ちに温かい微笑みを浮かべたおよそ三十代頃のご夫人が言う。部屋の中央に置かれた四足机をてきぱきと夕食模様に変える手際は、どの世界の女性も似たようなもので、私みたく仕事一本で生きてきた男にはとても真似出来そうにない。
「いえ、おかまいなく。こちらこそ申し訳ない。急な訪問で一家団欒に水を差したこの不調法者をお許しください」
「まあまあ、いいんですよお。困った時は助け合いですものね」
気のいいご夫人だ。背丈こそ低いものの、横幅は私の二倍はあろうかという立派な体格は、夫人の有り余る包容力を如実に示していた。彼女の栗色の髪と両眼に宿る水色の光は、なるほど私は確かに別世界に存在しているのだなと改めて再認識させる。思えば、ここはあの日本ではないのだ。あの世界ですらない。
「この辺には宿なんてものは無いし、夜の屋外は魔物やら賊やら危険がいっぱい。それにね、今日は丁度良いあんばいに牛を一頭捌いたところで、美味しい肉もたんとあります。そうときたら、誰が客人を追い出したりなんてするものですか」
「ふぉふぉ。いやはや、私は実に運が良い。心優しきご夫人に、改めてお礼を」
村へ足を踏み入れて、最初に出会ったのがこのご夫人だった。旅の途中で宿を探しているという旨の話をすると、一人旅の老人という点でえらく同情され、あれよあれよという間にこの家へ招待されてしまっていた。強引ではあったが、ありがたい話だった。損得抜きの好意が沁みる。
「まあまあご夫人だなんて、やめてくださいなぁ」
そう言って私の背中をきつく叩く。満更でもなさそうだが、少し痛い。
「エカチェで十分です、ふふふ。私達には遠慮なさらないで下さいな。きっと女神様のお導きですよ。お礼ならそちらへどうぞ」
「では、エカチェなるこの心優しきご夫人へ、巡り合う幸運を与え給うた女神に」
まあまあ、と夫人は微笑む。
「長旅お疲れでしょう、さ、腰をかけてお寛ぎになって。夕飯の支度が整うまでもうしばらく辛抱して下さいな」
そう言うと、私を一人残してにこにこ顔のエカチェ夫人は奥へ引っ込んでしまった。
四角い机には、私の座っているのも含め、四つの頑丈そうな椅子があった。ご夫人が私の椅子を奥から引っ張り出してきたことから、この家の構成員は三人だろうと思われる。大きさは似たり寄ったりなのでどのような体型の人物が座るのかはわからない。しかしご夫人の話から察するに、夫、妻、子供の三人家族のようだった。典型的な核家族だ。私達夫婦は子宝には恵まれなかったから、想像は難しい。
もう陽も暮れたようだった。開け放たれた両開きの木戸から差していた光が途絶えた。部屋はすっかり薄暗くなる。すると、部屋の天井四隅に設置された何かが、明々と光り出す。なんだなんだとそれらを見つめていると、部屋がすっかり明るさを取り戻していた。電球ほどの明るさは無いが、不自由なほど暗くもなかった。
「おじいさん、〈ホシの貝殻〉知らないの?」
「むっ」
突然の声に驚く。視線を移すと、私を見つめる幼い目と目が合った。いつのまにやら椅子に座って、私の様子を見ていたらしい。この家の子供だろう。母親と目元のそっくりな愛嬌のある女の子だった。面喰った私を見て笑っている。作戦大成功といった感じかと、私は苦笑する。笑った女の子は更に母親に似ていた。
私は気を取り直して訊ねてみた。
「こんにちは小さなお嬢さん。お爺さんはのう、遠くの遠くから来たのでよく知らないのだよ。お嬢さん、よかったら教えてくれるかい?」
「お嬢さんだって、ふふふ。いいよ、おじいさんには特別に教えてあげる」
女の子は頬を染めて笑いながら、私にその不思議な貝殻について教えてくれた。
「〈ホシの貝殻〉は、村の近くに流れてる〈アマノ川〉で取れるの。〈アマノ川〉は〈ウライツァート鉱山〉で採れる〈光輝石〉っていう光る石のセイブンが溶け出してるらしいんだけど、そのキシャクリツが高すぎて川ではそんなに光らないんだって。でも川に住む貝が、貝殻の部分にそのセイブンをいっぱいノウシュクするから、貝殻はずっと強く光るの。それが〈ホシの貝殻〉で、私達の村ではみんな使ってるの」
女の子――サルビアと名乗った――はそう説明すると、こう続ける。
「って、ルート君が言ってた」
受け売りだったのか。道理で。少女サルビアの不自然な語り口に納得する。ルートとはどんな人物なのだろうか。ルート君、というからには目の前の少女と同年代なのだろうが。
それにしても、星の貝殻に天の川とは。もしかするとこの世界には、ベガとアルタイルもいるのかもしれない。私は年甲斐もなく、地上の星々に思いを馳せた。
夕食の準備が整ったようだった。中央に盛られた豪快な牛肉の塊は、ふつふつと蒸気と旨みを漲らせている。食卓に着いた、少女サルビアとご夫人エカチェ、その夫ビクターの三人は、両手を祈るようにして合わせる。
「大いなる女神様、大地の恵みに、感謝を捧げます」
低い声でビクターが言うと、二人も続く。郷に入っては郷に、私も同じようにした。それからじっと目を瞑り、静かに祈る。厳粛な空気はすぐに霧散し、楽しい食事が始まった。
サルビアは旅の事について聞きたがり、夫人はそれを窘めた。夫人より更に大きい体格と厳めしい顔付きを持った夫ビクターは、その様子を黙って見守り、時に二人を収めた。私がいない普段の食卓が見えたような気がした。それは当たり前の光景かもしれないが、とても温かい光景だ。
途端に目頭が熱くなった。私は目蓋をぎゅっと閉じ、再び開けて食事を続けた。
私が絵描きであることは言ったが、異なる世界の人間だと言うのは避けておいた。精霊は納得しても、人間はそう簡単には納得しないものだ。私も当事者でないならそうだったろう。それに何より、この世話になった家族を面倒事に巻き込みたくなかった。一番の理由はそれだった。
この国の話を聞いた。遠い別の国から来たのだと言うと、夫人が気を利かせて話してくれたのだった。〈サザナミの国〉、それがここいら一帯を治める国の名前だった。王制、貴族や騎士の存在を聞くと、まるで自分がルネサンス時代にいるような気分になった。この世界は暗い時代でないことを願いたい。
地図の話題が出ると、サルビアが声を上げた。地図の持ち主を知っているというのだ。しかもその持ち主は、件のルートという人物だった。聞く所によると彼は地図の作成者でもあるらしい。非常に興味深い。
食事は進み、中央の肉塊はまだ残っていた。食べられなかったわけではない。むしろ見た目よりも淡白で、私の弱った消化器官でも驚くほどの量を食べることが出来た。三人も勿論よく食べた。それでも残っていたのだから恐るべきだ。
「ママ。お肉無くなりそうにないから、ルート君の家にお裾分けしてくるね」
サルビアが言うのを、夫人はそうねと応じて肉を皿ごと包み始めた。私は言った。
「私もお伴していいですかな」
言うまでもなく、この見事な地図を描いたルートという人物への純粋な興味から出た言葉だった。