精緻な地図
地図を開く。現在地は、〈ユリカゴ平原〉という所らしい。幸いにも、字が読めないのではとの危惧は杞憂に終わった。別の世界の言語など私が知るはずもないが、地図の言語は明らかに日本語の特徴を備えていた。この世界に日本語が存在するのか、それともクロッキー帳のような不思議な力の仕業なのかはわからないが、とにかく今の私には地図が読めるだけで十分だった。
草原の北部には〈緑神殿の廃墟〉とあった。恐らく最初に私が現れた場所だろう。神殿というからには、やはり何か神懸かった力が関係しているのだろうか。答えは出ない。
それより更に北にいくと、国境と〈ウライツァート鉱山〉という山があった。それで地図の上端は打ち止めだった。国境の存在から、ここは何らかの国に属しているという事が推測される。国名は書いていなかった。
草原の西部は森が広がり、その先は詳述されていなかった。だが、「凶暴な魔物多数。とても危険」という注意書きから、そちらへは行かないのが得策と思われる。〈魔物〉というのはまだ見ていないが、触らぬ神に祟りなしだ。わざわざ関わる事は無い。
南は草原がずうっと続き、次第に無くなっていく。地図の南西、つまり左下にはわずかではあるが海が書かれている。暫く海には行っていないので、是非また見てみたいものだ。こちらの世界の海はどんな表情を見せてくれるのだろうか。
しかし目下目指すべきは、東であろう。
草原の東部、地図の中央に位置する〈オラガ村〉。西寄りに存在する湖から真っ直ぐ東だ。
湖の部分に「水妖出没注意」と書かれてあるのが二重三重に消してあった。どこかの精霊のお嬢さんが訂正したのだろう。私は軽く忍び笑いを漏らす。
地図の配置とこの訂正から言って、この地図は村の人間が書いたものに違いない。〈緑神殿の廃墟〉と精霊の湖の位置関係から、私が歩いた距離と時間を考慮すると、日が暮れる頃には村に到着できるかというところだ。
夜道は物騒だ。魔物などというものに出くわさなければいいが。地図を見ながら私は歩調を早めた。疲れはあまりない。杖がぐいぐいと引っ張ってくれているような気さえする。こんな頼りになる相棒を描こうと真っ先に思いついたのはまったく正解だった。
方位磁石は、両手が塞がっていて使えないので、腕時計のように装着するようにした。これも、私にしては冴えた思い付きだ。この世界へ来て、少し若返ったかな。それもこれも気の持ちようだろうか。
それはそうと、この地図。どうやらよくある複製品の類ではなく、紙に直接描かれたもののようだ。紙の品質が良くないのか、麦わら色の素地に所々文字が滲む。素材は亜麻だろうか。私も昔はキャンバスの素地として使ったものだが、近頃はめっきりで判断がつかない。いや、私の世界に存在したものがこの世界に存在するのか、根本的な問題を忘れていた。この素材が、この世界独自のものである可能性は高い。
などと考えていると、不意に甘い香りが鼻腔をくすぐった。元を辿ると、地図のインクが放つ匂いらしいことに気が付いた。とても気分が落ち着く匂いだ。このインクもまた、独自の調合がなされているのだろうか。
草原にはいつのまにか、高低の木々が見られるようになっていた。草も幾分まばらだ。
陽もそろそろ傾いてきた。道中に様々な考え事を巡らしながら、私はひたすら歩いた。地図について、ひいてはこの不思議な世界について疑問は尽きないが、ともかくこの地図が非常に精緻であることは疑いようが無かった。
木造の家々と、それに備え付けられた大小の畜舎。入り口らしき場所には立て札がある。地図を懐にしまい、声に出して立て札を読む。
「〈オラガ村〉」
地図と方位磁石は寸分の狂いもなく、私を村へ導いたのだった。




