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精霊の絵



 

「それで、どうなったのですかな?」

「それで、おしまいよ」

 彼女はきっぱりと言う。

「それはまた、えらく唐突なことですな」

「ええ、確かに唐突ね。でもそんなものさね、生きるってのは。どんな生き物だって大差ない。みんな幸福で不幸で、生きて死ぬだけ」

 私は筆を止めて、空を見上げた。いくつもの雲が連れ立って、のんびりと日向ぼっこを続けている。風が髭を揺らす。私は帽子を押さえながら、湖面の波紋と、同様にうねる草原を見やる。その光景は、とても綺麗だった。

「もしかすると、妖精は夢を叶えたのかもしれませんな。そう、その男の分まで」

 すっきりした表情のヘルスロース嬢は、私の意見をやんわり否定する。

「いや、その妖精の妖精としての人生は、それこそサイアク。失意と後悔しかなかった。だから物語はここで終わるの。延々下り調子の話なんて聞きたくないわよね? 救いの手なんてそうそうあるもんじゃないよ。つまんない話で悪かったね」

「いやいや、よいお話でした」

 お世辞は結構、と彼女はにべもなく言う。



 私は再び筆を手に取ると、絵に最後の仕上げをする。サインはしない。これで完成だ。

「どう、まだ出来ないの?」

「いま丁度」

 私はキャンバスを取り外し、彼女に見えるよう両手で支えた。彼女は絵を食い入るように見ている。驚いているようだ。私はその反応に満足する。

「これ、アタシ?」

「はい、少々妖精の物語を参考にさせて頂きました」

 背景には波打つ湖と草原、そして現実には存在しないちんまりとした簡単な木の家が一軒。中央には勿論、麗しき湖面の精霊サラ・ヘルスロース嬢。木の家以外は何の変哲もないこの絵が、彼女に衝撃を与えた理由は、表情だった。刹那の、幸福に満ちた表情。

「アタシはこんな顔しないわっ」

「水鏡に映る表情ばかりが真実ではないことを、精霊のあなたならよくご存じでしょう」

「……」

「もし迷惑でないなら、その絵は差し上げます」

 物語の「男」の事を語る彼女の表情を、もう一枚剥がしてやるだけだった。肖像画としては禁じ手かもしれないが、彼女には彼女を知ってもらいたい。幸福の一切を内包するその表情は、精霊というには俗っぽく、しかしもっとずっと尊いものに思われた。

「…………」

 彼女は押し黙ったままだったが、何か整理がついたのか息を吹き、一言こう言った。

「貰うわ」

 出会ってから一番の笑顔だった。彼女は全く哀れではなかった。




「そう、奥さんを。それでここに」

 それから色々世間話をした。特に隠す理由もないので、これまでの経緯も話した。近くにある村というのが気になったのもある。

「事情は複雑みたいね。まあ、事情というからには複雑なのが世の常ね。道理で奇妙な魔法を」

 絵を受け取った彼女の態度は、驚くほど軟化した。彼女は私の話を親身に聞いてくれた。しかし、その〈精霊〉である彼女をもってしても、理解に苦しむ事が多いらしい。

 まず、私の住む国日本は、この世界・・・・には存在しないらしい。従って私は私の住む別の世界・・・・からこの世界・・・・にやってきたようだ。世界から世界へ、これは言うまでもなく驚嘆すべき出来事だ。この事象をヘルスロース嬢は〈世界渡り〉と呼んでいた。

「すまないけど、アタシにはどうすることも出来ないわ」

「ふむ。いや、そう未練は無いのでね、よいのです」

 子供もいない、親戚付き合いも浅い、弟子などもうとっていない。妻亡き今、私を元の世界と繋ぐものはそう多くは無い。つくづくアイツの存在の大きさを実感する。

 また今度のことで、画材も例の力で出せる事がわかった。絵を描くのにそれ以上はいらない。そして私も絵以上のものはほとんどいらない。

「村のことだけ教えて下さればいいのです、はい」

「じゃあ……」

 彼女は湖面に手を差し入れ、何かを取り出す。湖は彼女のポケットみたいなものなのだろうか。

「これは村への道標。あと、これだけ持って行きなさい。餞別よ」

「これは……」

 彼女が私に寄こしたのは、この周辺の地図らしきものと、もうひとつは直径五センチほどの、銀の鈴だった。見たこともない鳥と波をあしらった意匠は素晴らしかった。だがそれ以上に気になったのは、鈴がヘルスロース嬢の気配を纏っていたこと。麗しい湖の匂いがした。

「爺の独り歩きをほっぽって、勝手に死なれちゃ堪んないもの。奥さんの為にもね。鳴らせば助けになる。あと最後に一つ」

「はい?」


「かけがえのない相手と出会えたというそれだけで、アンタは間違いなく幸せ者よ」


 そう言って、麗しい湖面の精霊はあれよと言う間に姿を消したのだった。静かな波紋だけがゆっくりと湖に広がり、そして消えていった。私は再び一人になった。

 そうか、私は幸せ者か。

「ふぉふぉ」

 精霊のお嬢さんあなたは……と聞くだけ野暮ですかな。

 私は受け取った鈴を胸ポケットにしまい、地図を広げた。杖を拾い上げ帽子を深く被り直し、私はこの不思議な出会いと小さな湖を後にした。草原にまた気持ちのよい風が吹く。






 やがて妖精は南の海から姿を消した。妖精はある場所を目指し、その羽根で飛んだのだった。海を越え山を越え飛んだ。羽根は飛ぶのに向いていなかったから、途中で使い物にならなくなった。それでも妖精は進み、ようやく辿り着いた。


 そこは、おかだった。そして辺り一面の草原だった。


 草原の真ん中に着くと、妖精は再び泣き始めた。涙を流し続けた。妖精は、海の妖精だったから、涙が涸れる事はなかった。飲まず食わずで幾日も泣き続けた。いつの間にか妖精族と人間族の戦争も終わっていた。それでも妖精は泣き続けた。でも海の妖精が丘の上で生き続ける事は難しかった。妖精は泣きながら弱っていった。


 そんな妖精の様子を見兼ねたのは〈水の精霊王〉だった。妖精の涙はとても純粋で、涸れるのは勿体ないと考えた。それに妖精が不憫でもあった。

 妖精は〈水の精霊王〉の計らいで、〈水の精霊〉になった。草原に落ちた尽きせぬ涙は小さな湖を形どった。精霊になった妖精は、草原にできたその小さな湖で長い長い眠りについた。

 

 幾世か後、精霊は目覚めた。深い悲しみは、長い歳月が癒していた。

 湖には人間が来ていた。湖の水はとても綺麗で美味しかったので、近くの村の人間には評判だったのだ。更に、湖の周辺には不思議なことに魔物が出なかった。だから、目覚めた精霊が、湖面に姿を現すと人間は驚いて言った。

「水妖だぁ!」


 かくして、湖の精霊は魔物のように扱われることとなった。不本意ではあったが精霊の毎日は、それはそれで充実していた。しかし一方で妖精の記憶だけが埃を被ってゆき、精霊は内心これでいいのかと複雑でもあった。だから精霊が心の底から笑うことは無かった。そこへある老いた画家が訪れるのはもう少しあとの事。



 丘の上から望む一面の草原に、ぽつりとある小さな湖。時折吹く風が起こすうねりが、二人の夢をたたえた草原と湖を繋ぐ。長い長い妖精の物語に終止符を打ったのは、老いた画家が描いた一枚の精霊の絵。


 絵の中の妖精は間違いなく幸せ者だった。



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