湖畔の世間話
そういえばまともに人間と話したのはあの日以来だった。湖に写る空の色だけが変わらない。
「どうしましたね」
「いえ、何でもないわ」
「あ、そう」
目の前の爺、名前はなんといったか。そいつがアタシの姿を観察しながら、どこからか取り出した木枠に布を張り付けた道具――爺はキャンバスと言ったか――に色を塗り付ける。奇妙な人間。
「ああ、奇妙に見えるでしょうなあ」
「っ! どうしてアタシの考えを……」
ふぉふぉ、と髭を一撫ですると爺は事も無げに言う。
「こう無駄に年ばかり食うと、人を見る目だけは鋭くなりますのぅ。それも絵描きですからな、表層に現れる大抵のことはわかります。いやはや、体は鈍る一方であるのに」
そしてもう一度笑う。その眼は何故か、嬉色を宿してはいなかった。やはり奇妙な人間だ。アタシは精霊としてはまだ若い方だが、しかしそれでもこの爺よりはよっぽど年嵩だろう。元来〈精霊〉とは古いものだ。人間とは、住む世界が多少交われども生きる時間が絶望的に違う。
やはり人間とは相容れない。それは何も精霊に限った話ではないけど。
ある笑い声を思い出した。古い記憶は、人間だろうが精霊だろうが何だろうが関係無く、何かの拍子に思い起こされる。まったく、迷惑な話ね。
爺は不思議な道具を様々に用い、キャンバスを自在に染めながら言う。
「老いぼれはただ去り往くのみの存在。とはいえ、だからこそ俗世に憚りのないこともままあるものです。例えばそれ、まだ何とか使える耳が二つあります」
「何が言いたいのよ」
「時に、誰かの耳を通さねば濾過出来ぬ想いの濁りがあります。抱え込んだ荷を預け、一服したい気分になることは〈精霊〉にはありませんかの?」
「……」
そういうことか。つくづく、奇妙な人間だ。これだから人間はわからない。
「世間話でもしませんか、お嬢さん」
アタシの側からはちらとしか見えないが、絵は順調に進んでいるようだった。どうして自分が爺の願いを聞き入れたのかずっとわからなかったが、漸くわかった。
人が恋しかった。感傷的に過ぎるだろうか。いいや、誰にでもそんな時はある。
「世間話か……世間話とはいえないけど、丁度知ってる物語があるよ。爺が暇だってんなら、望み通り退屈しのぎに話してやるわ。なあに、古くてちんけな恋物語さね。アンタが言い出したんだから文句は受け付けないよ」
「ふぉふぉ、歳月は耳を寛容にさせます」
「ふん、そうかい」
アタシは息を深く吸い込む、声が震えないように。
「遥か昔、ある〈妖精〉がいた」
遥か昔、ある妖精がいた。その妖精は南の海に住んでいた。その頃、妖精族と人間族の仲は芳しくなかった。というより、サイアクと言っても言いすぎじゃない状態だった。
でも、互いに憎み合う仲だからこそ育まれた奇妙な関係もあった。
妖精と、海岸でよく殺し合う人間の男がいた。強力な水の使い手であったその妖精を相手取り、男は一歩も引かず、撤退時にはいつも殿を務めた。仲間思いの強い男だった。戦闘中、妖精とはよく目が合った。二人はいわゆる好敵手だった。
妖精は男と戦う事が嫌いではなかった。元々、妖精は別の海に住んでいた。だから、南の海に仲の良い者はいても、特別深い仲の者はおらず、どこか孤独感を感じていたのかもしれない。男との強烈なやり取りは、妖精のそんな孤独感を吹き飛ばし充足させた。男も妖精と同じようだった。二人は戦場にも関わらず、笑い合う事さえあった。
それは、とても奇妙な関係だった。
ある時、油断した妖精は大怪我を負った。味方の〈魔法暴発〉だった。男が近づいてきて、妖精は最期を覚悟した。しかし、何も言わず男は妖精を自分の家で匿い、看病した。小さな湖に隣り合ったこれまた小さな家は、妖精にはとても無骨な男のものだと思えなかった。妖精は男への警戒を緩めず、自分はもう死んだものだと考えていた。捕虜は最も不名誉だった。
男は名を名乗り、妖精に他愛の無い世間話をした。妖精は頑として耳を貸さなかった。妖精としての意地ではなく、別の何かがそうさせた。だが、男が語った夢は妖精にも響いた。二人の夢はとても似通っていたのだ。しかし、どちらも叶わない夢だと、妖精は知っていた。
男は妖精が完治するまで治療以外一切手を出さなかった。あったのは男の一方的な世間話くらいだった。完治した妖精は去り際に思わず聞いていた。
「どうして殺さなかった」
男は少し困った顔でこう答えた。
「よく、わからない」
妖精は納得出来なかったが、一応の礼を言い立ち去ろうとした。それを突然男が引きとめた。きた、と妖精は思った。決着を着けるのかと。男から飛び出した言葉は意外なものだった。
「おいっ、俺とどこか……どこか遠くへ行かないか! 妖精も人間も関係無い!」
妖精は放心してようやく、馬鹿馬鹿しい、ふざけるなと一笑に付すと、そのまま海へ帰った。去り際に男が見せた表情をその時の妖精には理解できなかった。
またしばらく後、妖精は再び戦場へ駆り出された。また男と殺し合うのだ。妖精の心は固く決まっていた。決まっていた、筈だ。妖精族の為、同胞の為……。理由は沢山あった。
戦場に、男はいなかった。
妖精の心は揺らいだ。かき乱された。裏切り者、逃げられた、腑抜け腰抜け……。男への罵詈雑言で溢れた。次の戦場にもその次の戦場にも男の姿は無かった。もう、男の事など、どうでもいい。どこへなりと行って、そのまま幸せにのたれ死ねばいい。妖精はぽっかりと空いた穴を必死で埋めようとした。
それから妖精は一心不乱に自らの役割を全うした。人間を倒して倒して倒し抜いた。妖精の働きも大きく、妖精族はついに、人間の本拠地の一つを下した。そこは男のいた部隊の所属する所だった。妖精は男の所在がふと気になり確かめた。
すると、ある資料に行き当たった。男のいた部隊の活動記録だ。
妖精は何かに憑かれたように男の名を探した。助けてくれた折、不本意にも聞いたその名を。一枚一枚、丁寧に、見落としの無いように。男はどこへ行ったのか、どうなったのか。知りたい気持ちは加速していった。
そして見つけた。
男は処刑されていた。
罪状は、妖精族の隠匿等、裏切り。それは紛れもなく妖精のせいだった。これまで妖精を突き動かしていたものが、意味を失った。妖精族の誇り、仲間達のため……違う違う、違うっ! 必死で埋めようとしていた心の穴が、またもやぽっかりと姿を現す。
その時、妖精には声が聞こえた。男の声だった。あの時の、夢を語る男の心底楽しそうな声だった。
「俺はさっさと戦争なんぞ止めて、駐屯地を引き払いたい。ここらは砂浜と海ばかりでうんざりだ、だろう? って、海の妖精に向かって何を言ってるんだろうな俺は」
男は笑う。
「それで……草原に住むんだ。辺り一面の草原だ。風が吹いて、草が海みたく波打つ。最高だと思わないか? それが、俺の夢だ。あ、笑うなよ?」
大の男が、戦場では大鬼の如く妖精族に恐れられるあの男が、無邪気に夢を語る。妖精も戦場は飽き飽きだったし、未知の世界である丘にも密かに憧れを抱いていた。だから、草原の幻想はけして嫌いではなかった。
男は天涯孤独で故郷が無いと言った。私も似たようなものだと妖精は思った。
男は部隊のお調子者の話をした。妖精族にもそんなのいるなと妖精は笑いを堪えた。
男は妖精の髪が湖にうねる小波のようで綺麗だと言った。妖精は戸惑った。
思い出というには余りに少ない記憶が泡のように現れては消える。
妖精は思い出しながら、泣いていた。声を上げて泣いたのは子供の頃以来だった。恩人である男への反発も、姿を消した際の整理の付かない苛立ちも、妖精は全てを悟った。
もしもあの時、男についていけば。どうなったろうか。
でも、全て手遅れだった。男はとっくに死んでしまっていた。




