消えた台帳を探して
翌朝、空が白み始めるより早く、リセラは宿を出た。
眠り街の広場には、昨夜と同じ一本の灯がともっている。夜明けの薄明かりに負けまいとするように、街灯は淡い金色を柱の周りへこぼしていた。
その下で、レオンが地図筒を背負って待っている。
「眠れましたか」
「少しだけ。あなたは?」
「台帳の保管場所を三度確認していました」
いつもの実務的な返事に、リセラは小さく笑った。彼が眠れなかった理由が、商会への警戒だけではない気がしたからだ。
二人は街の北端にある、古い灯路局の出張所へ向かった。石造りの建物は長く使われていないらしく、扉の蝶番には赤錆が浮いている。けれど、鍵は新しかった。
レオンが局員証をかざすと、鍵の表面に青い光が走った。扉は開いたが、中の空気は冷たく、紙と油の混じった匂いがした。
「ここに街路台帳が?」
「本来なら、現地保管分があるはずです。修復履歴、資材の搬入、光脈の測定値。街灯一本につき一冊か、少なくとも数枚の綴りが」
窓のない記録室には、棚が六列並んでいた。レオンが持参した一覧表と棚の札を照らし合わせる。リセラはその隣で、指先に残る星糸の感覚を頼りに、紙の束を一つずつ確かめていった。
帳面はあった。
ただし、肝心の眠り街の分だけがない。
「第三区画から第七区画まで、まとめて欠落しています」
レオンは空いた棚を見つめた。埃の積もり方から、帳面が抜かれたのは昨日や今日ではない。それでも、棚札だけは新しく差し替えられていた。
「誰かが、最初から無かったように見せた」
リセラは棚の奥へ手を伸ばした。指先に、細い金属の縁が触れる。引き出すと、古い索引板が一枚出てきた。端に、昨日ミナが拾ったものと同じ銀の天秤が刻まれている。
「この番号……」
レオンが金属片を取り出し、索引板の刻印と重ねた。
「同じ台帳を示しています。けれど、移管先の欄が削られている」
削り跡は深く、文字を読み取れないよう故意に潰されていた。リセラは針箱から細い検査針を取り出し、刻印の溝へそっと差し入れる。光脈を縫うときと同じように、残った凹凸を指先で追った。
「王都、ではありません」
「分かるのですか?」
「文字は消えても、削った順番は残ります。最初の線は『中央』、次が……『地下』。そのあとに、数字が三つ」
レオンは黙って数字を書き写した。
「王都中央灯路の地下保管庫、三百十七番。そこへ移された可能性がある」
「どうして地方の台帳を王都へ?」
「異常があった記録を、中央で再審査することはあります。ですが、移管には局の承認印と、理由の記載が必要です」
彼は一覧表をめくった。眠り街の欄には、移管の印も理由もない。代わりに、鉛筆で引かれた細い線が、街の名前を横切っていた。
そのとき、外で馬車の止まる音がした。
レオンが窓のない壁を振り返る。足音が二つ、三つ。続いて鍵を差し込む音が聞こえた。
「商会です」
「なぜ、ここが分かったのでしょう」
「昨日の抗議で、私が局の保管庫を調べると言ったからでしょう」
レオンは索引板を地図筒へしまった。リセラは削り跡を写した紙を折り、胸元の内側へ入れる。
扉の向こうで、男の声がした。
「記録の確認に来た。開けなさい」
レオンは扉の前に立った。
「局員として命令書を確認する」
「こちらにも局の許可がある」
「なら、扉越しでなく提示してください」
沈黙が落ちた。やがて舌打ちが聞こえ、足音が遠ざかっていく。
レオンはすぐには動かなかった。外の気配が消えるまで待ち、それから裏口へ続く細い通路を示した。
「出張所の裏は、旧灯守の住居につながっています。記録を持ち出すなら、こちらのほうが安全です」
「まるで、最初から逃げ道を知っていたみたいです」
「測図官は、道を知る仕事です」
裏口の先には、蔦に覆われた小さな家があった。ミナの話に出てきた、倒れた灯守の住居だった。レオンが戸口の板を調べていると、リセラは軒下に細い光の筋を見つけた。
星糸ではない。古い合図のための糸だ。
針を抜き、ほつれた結び目を一つだけ直す。光が三度またたいた。
背後から、ミナの声が飛んできた。
「それ、灯守さんの合図だよ。『灯を抜いた者は、北の井戸を見よ』って意味」
少女は息を切らしていた。宿の女将から二人の行き先を聞き、追いかけてきたらしい。
「井戸の中に、台帳があるの?」
「分からない。でも、灯守さんは何かを隠すとき、いつもそう言ってた」
三人は家の裏手へ回った。崩れかけた井戸の縁には、銀の天秤の印が薄く残っている。レオンが石蓋を持ち上げると、底から乾いた金属音が返った。
縄を使って降ろした籠の中には、油紙に包まれた薄い帳面が入っていた。
表紙には、眠り街の古い名前と、母印のような星形の印。
リセラの呼吸が止まる。
その印を、彼女は知っていた。母の裁縫箱の底に、同じ形の焼き印があった。
「これは……母の記録です」
レオンは何も言わず、帳面を彼女の手へ渡した。
最初の頁には、光脈の測定値が並んでいる。次の頁には、街灯を修復した日付。そして最後の数行だけが、乱暴に切り取られていた。
残った文字を、リセラは一つずつ読んだ。
『地方の光は、壊れているのではない。
夜ごと、中央へ送られている。
送出先の名を記す前に、記録を奪われた』
帳面の隅には、三百十七という数字があった。
王都地下保管庫の番号だ。
リセラは帳面を胸に抱いた。母が遺したのは、失われた街の記録だけではない。誰かが光を奪っているという、消されかけた証拠だった。
「王都へ行けば、続きを見つけられます」
「その前に、この街で灯を増やす」
レオンの言葉に、リセラは顔を上げた。
「証拠を守るだけでは、商会の言い分を覆せません。住民に、光が戻るところを見てもらう必要がある」
「灯祭りの準備を?」
ミナが目を輝かせる。
リセラは、眠り街の向こうに見える暗い通りを見つめた。まだ消えた灯は多い。けれど、一本目をともしたときと同じように、縫い直せる光は残っている。
「ええ。台帳を奪った人たちが戻ってくる前に、街の灯を一つでも多く」
レオンが地図を広げた。リセラはその上に針先を置く。
消えた記録を探す手は、失われた灯を探す手と同じだった。
暗闇の中で、まだ切れていない光の糸が、確かに次の場所へ伸びている。




