灯路局の測図官と、夜の契約
翌朝、王立灯路局の正門前には、夜明けの色をした馬車が一台停まっていた。
王都の街灯は相変わらず消えたままだ。門番の持つ手燭だけが、石畳に細い円を作っている。その脇で、濃紺の外套を着た男が地図筒を抱えて立っていた。
年は二十代半ばほど。黒に近い髪は風に乱れているのに、本人は気にする様子もない。胸元の銀章には、灯路局の紋章と測図官を示す細い線が刻まれていた。
「リセラ・セルディ嬢ですね」
「はい。レオン・ハルツ測図官でいらっしゃいますか」
「レオンで結構です」
差し出された手は、貴族に向けるものにしては飾り気がなかった。指の関節には鉛筆の跡があり、手袋の縫い目は何度か直されている。
仕事をする人の手だ、とリセラは思った。
「では、私のこともリセラとお呼びください。旅のあいだ、いちいち身分を確かめるのは不便ですから」
レオンの灰色の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「承知しました」
それだけ言うと、彼はリセラの鞄へ視線を落とした。母の木箱が入っている。針の先が折れないよう、布を幾重にも巻いてあった。
「星糸はその中に?」
「三色分。銀、藍、透明です。ベルナードの光脈が古いなら、銀だけでは流れが安定しないかもしれません」
「事前の記録では、町の中央路に三本、鉱山跡へ向かう脇道に二本。すべて消灯。光脈そのものが切れたのか、灯具が壊れたのかは不明です」
レオンは地図筒から一枚の羊皮紙を取り出した。細い線が王都から北西へ伸び、ベルナードの手前で二つに分かれている。片方には町の印。もう片方には、黒く塗りつぶされた四角があった。
「この黒い場所は?」
「旧・王立採光所。現在の台帳には存在しません」
「存在しない施設へ、光脈だけが流れている」
「そのように見えます」
レオンの返事は淡々としていたが、地図を押さえる指だけが強く紙に食い込んでいた。
馬車が動き出す。王都の城壁を抜けると、街道沿いの灯柱が次々に現れた。どれも黒い。朝の光があれば目立たないはずなのに、消えた街灯は道そのものから温度を奪っているようだった。
「王都の灯りが消えた原因を、どう考えていますか」
向かいの席で地図を読むレオンに、リセラは尋ねた。
「原因は複数あります。大規模な断裂、灯路局の配分装置の故障、あるいは意図的な流路変更」
「最後の可能性を、局は認めているのですか」
「認めているから、あなたを呼んだのだと思います」
思いがけない答えだった。
レオンは視線を上げた。
「星縫いの仕事を、私は地図の補助とは考えていません。光脈の状態を判断できるのは、あなたです。私が線を記録し、あなたが綻びを直す。どちらか一方では、現場の灯りは戻りません」
馬車の車輪が石を踏み、車体が大きく揺れた。
リセラは窓の外を見た。かつて婚約者に言われた言葉が、まだ胸の底に残っている。古い技術。役立たず。誰かの後ろ盾がなければ何もできない令嬢。
けれどこの男は、針を持つ手を地図の隣に置こうとしている。
「なら、ひとつ条件があります」
「聞きましょう」
「私が修復した光脈を、資材商会や局の許可なく商売に使わないこと。ベルナードの灯りを直したあと、別の場所へ流用するなら、町の人々に知らせること」
レオンはすぐには答えなかった。やがて地図を折り、膝の上に置く。
「私からも条件を。危険な綻びを、報酬や期限のためにひとりで縫わないこと。異常を見つけたら、必ず私に伝えてください」
「約束します」
「では、契約にしましょう」
夕暮れ前、二人は街道脇の古い灯守小屋で馬を休ませた。ベルナードまでは、あと半日。夜を越えるための小屋には火床もなく、窓の外には濃い闇が広がっている。
レオンは局の用紙を取り出し、リセラの条件を書き加えた。公的な依頼書にはない、現場担当者同士の覚書だった。
「口約束では、誰かが都合よく忘れます」
彼はそう言って、銀の小さな燭台に火をともした。炎は弱く、紙の上の文字をかろうじて照らす。
リセラは母の木箱から黒い針を取り出した。針の柄に刻まれたベルナードの街章が、燭火の中で一瞬だけ青く光る。
「署名は、これで」
針先に透明の星糸をひとすじ絡め、二人の名前の下を縫い合わせる。紙を貫いた糸は淡い光を残し、契約の文字を細い輪で囲んだ。
レオンが、その光をじっと見つめる。
「それが、星縫いの……」
「誰かを縛るためのものではありません。約束がほどけないよう、目印をつけるだけです」
「十分です」
彼の声は、初めて会ったときより柔らかかった。
小屋を出ると、遠く北西の闇に、ひとつだけ淡い明かりが浮かんだ。消えたはずのベルナードからだ。
その灯りは、点滅するように三度またたいた。
リセラは足を止めた。
「今の光、見えましたか」
「ええ。規則的な信号です」
レオンはすぐに地図を開いた。
「誰かが、灯りを使って助けを求めています」
リセラは黒い針を握り直した。王都で失ったものを数えるのは、もうやめようと思った。
今夜、彼女には新しい契約がある。隣には、地図を読める相棒がいる。
「行きましょう、レオン。ベルナードが待っています」
消えた街へ向かう馬車の上で、二人の間に結ばれた透明な星糸が、夜の闇を細く照らしていた。




