王宮の大広間で、針を通す
王宮へ向かう朝、王都の空は薄い灰色をしていた。
リセラは仕立屋の鏡の前で、借り物の外套の襟を整えた。マルタが直してくれた裾は、歩くたびに軽く揺れる。胸元には爵位を示す徽章も、星縫いの資格証もない。
代わりに、母の針入れと、昨夜綴じた記録の束があった。
「顔を上げておいで。王宮は人を大きく見せる場所じゃない。大きな場所で、何を見たか話す場所だよ」
マルタに背中を押され、リセラは扉を出た。
店の前には、眠り街から来たオルドと、灯祭りの紙飾りを作った少年、それに井戸番の若者が待っていた。王宮へ入れるのは代表者だけだと聞かされても、彼らは帰らなかった。
「門まで行く。中に入れなくても、ここにいると伝えるさ」
オルドが言うと、若者たちも頷いた。
その少し先で、レオンが測図器具の箱を馬車へ積んでいた。彼はリセラを見ると、赤い糸束を確かめるように持ち上げた。
「眠れましたか」
「記録の数字を三度見直しました。ですから、眠ったというより目を閉じていた、が正しいです」
「なら、今日は私が地図を読みます。君は針を持ってください」
それは簡単な役割分担のように聞こえた。けれど、リセラの胸には、昨日より確かな足場ができた。
王宮の大広間は、昼間だというのに星灯で満たされていた。高い天井から吊るされた無数の灯籠が、白金色の光を床へ降らせている。美しい光景だった。だからこそ、リセラにはわかった。
この明るさは、自然な流れではない。
広間の中央を走る光脈が、まるで細い川を無理にせき止めたように震えている。遠くから、眠り街の灯がかすかに助けを求めていた。
正面の壇上には、灯路局の局長と、資材商会の代表としてギルベルトが立っていた。彼は以前と変わらぬ仕立ての上着を着て、リセラを見るなり眉をひそめた。
「資格を失った者を、審議の席に通すおつもりですか」
局長の声が大広間に響いた。
「彼女は元婚約者にすぎません。商会の資料を持ち出し、地方の住民を煽っている。これは灯路の問題ではなく、契約違反の問題でしょう」
ざわめきが起きる。リセラは記録の束を抱え直した。
「この記録は、商会の資料ではありません。灯が消えた人たちが、自分の手で書いたものです」
「素人の覚え書きに、王国の灯路を裁く力があると?」
「少なくとも、灯のそばにいた人の記録を、灯から遠い机で書き換えた台帳より軽く扱う理由はありません」
言い返した瞬間、広間の奥から小さな拍手が聞こえた。門の外にいるはずのオルドたちが、いつの間にか傍聴席へ通されている。ミナもいた。少女は両手で、煤けた合図札を握っていた。
局長が顔を赤くする。
「傍聴人の発言は許可していない」
「発言ではありません」
レオンが静かに前へ出た。
「提出された台帳と、現地の証言を照合するための立会人です。測図官として、地図に記された流量と、現場の報告が一致していないことを証言します」
彼は大きな地図を床に広げた。王都から地方へ伸びる光脈が、青い線で描かれている。その途中に、赤い糸が何本も結ばれていた。
「こちらが局の台帳です。眠り街への供給量は、四年前から変化なしとある。しかし、住民の記録では、灯が弱まった日が街路ごとに残っている」
「記憶違いでしょう」
ギルベルトがすぐに口を挟んだ。
「雨の夜に灯が暗くなっただけでは? 星灯は天候の影響を受けます。商会に責任を押しつけるなど、見苦しいですよ、リセラ」
昔なら、その呼び方に心が縮んでいたかもしれない。
けれど今、リセラの耳に届いたのは、広間の地下で光脈が軋む音だった。
「では、実際に確かめます」
リセラは母の針を取り出した。
局長が制止するより早く、レオンが地図の一点を指した。広間の床下、王都へ流れ込む主脈と地方へ分かれる枝脈の境目。そこには、装飾石に隠された小さな継ぎ目がある。
「あれは王宮の設備だ。触れる許可はない」
「だから、見えない場所で流れを変えられたのです」
リセラは床に膝をついた。石の継ぎ目へ細い星糸を添わせる。糸は淡く光り、隠されていた光脈の綻びを浮かび上がらせた。
綻びの周囲には、何度も針を通した跡があった。古いものの上から、別の糸で強引に縫い留めている。王都へ光を送るため、地方への枝を絞る仕掛けだ。
「これは故障ではありません。誰かが流れを変え、綻びを隠すために縫い直したものです」
「証拠を触って壊すつもりか!」
ギルベルトが叫んだ。
「壊しません。正しい流れを通します」
リセラは赤い糸を針穴に通した。糸の先には、眠り街の灯守たちが持ってきた合図札の細片を結んである。ひとつひとつの名前と、消えた灯の場所を、光脈へ返すためだった。
針を継ぎ目へ差し込む。
その瞬間、広間の星灯が一斉に揺らいだ。
白金色の光が細くなり、代わりに床の下を走る青い光が、枝分かれしていく。王宮の明かりを少しだけ落としながら、遠い地方へ向かって流れ始めたのだ。
大広間の窓の外で、昼の街灯がひとつ、ふっと明るくなった。
続いて、二つ、三つ。傍聴席から息を呑む音が重なる。
「今の流量を測れます」
レオンが測図器を覗き込み、顔を上げた。
「台帳にある数値と違う。王都へ送られていた分の一部が、いま地方へ戻っています」
ミナが合図札を掲げた。
「灯守の合図です。ひとつ目、東通り。二つ目、井戸の角。三つ目は……橋の下!」
少女の声に応えるように、遠くで小さな光が順番に灯った。
局長は、床の継ぎ目と地図を見比べたまま動かなかった。ギルベルトだけが、リセラの針へ手を伸ばそうとした。
しかし、その手をレオンが遮った。
「触らないでください。これは公開検証です」
「君は局員だぞ。誰の側に立っている!」
「測った事実の側です」
レオンの声は大きくなかった。それでも、広間の隅まで届いた。
壇上の審議官が、初めて口を開いた。
「台帳の原本を封印せよ。商会と灯路局の記録を、すべて提出させる。現地証言も記録官をつけて残せ」
ギルベルトが反論するより早く、審議官はリセラを見た。
「その針を抜いても、同じ流れを再現できるか」
「はい。私一人ではなく、記録と地図があれば」
リセラは答えた。
「ならば明日、各街の光脈について、公開の場で説明してもらおう。王国中の灯をどう戻すか、具体的な案を」
針を抜くと、赤い糸の先で小さな光が震えた。大広間の灯はまだ十分に明るい。けれど、もうこの場所だけが明るいのではない。
リセラは立ち上がり、隣に立つレオンを見た。
「明日も、地図を読んでくれますか」
「君が針を持つなら」
「それは、契約ですか?」
「仕事の約束です」
彼の返事に、リセラは初めて笑った。
王宮の大広間を出るころ、窓の外の街灯が、昼の空にも消えずに残っていた。
灯りは、奪われた場所へ戻せる。
その道筋を、今度は誰かの許しではなく、自分たちの手で縫っていくのだ。




